映画『天国はまだ遠く』
【11月23日特記】 映画『天国はまだ遠く』を観てきた。主演は加藤ローサとチュートリアルの徳井義実である。残念ながら僕があまりそそられる顔合わせではない。それでも見に行ったのは監督が長澤雅彦だったからだ。
前作『夜のピクニック』を、僕はこの監督が何者か全く知らずに見に行った。それは恩田陸の原作が素晴らしかったのと、主演が多部未華子だったからだ。そして、映画化は難しいと思われたあの小説を、見事なほどに原作に忠実に、かつ映像的にも目を瞠るような、非常に感慨深い作品に仕立て上げた手腕に驚いたのであった。
さて、今回のこの映画、日曜日ということもあるのだろうが結構入っている。果たして、そのうち何人が僕と同じように長澤監督の名前に惹かれてやってきたのだろう?
明らかに加藤ローサのファンと思われる少年たち。どうやらイケメン徳井目当ての女性2人組。そして、見終わるまで知らなかったのだが、この映画の原作は瀬戸まいこだった。この原作を読んで見に来た客もいたのだろう。
舞台は京都の北部、宮津市の人里離れた民宿「たむら」。両親の死後、この民宿をひとりで切り盛りしている(と言っても客はほとんど来ない)田村(徳井義実)の元に、都会の生活に疲れ果てた山田千鶴(加藤ローサ)がやってくるところから始まる。
千鶴は自殺しようとしている。素より田村はそれを見抜いている。しかし、着いた初日に千鶴が自殺に失敗していたとは知らず、「ほんで、いつ死ぬん?」などと、わざと突き放した言い方をする。
そこから先、あまりストーリーは動かない。下手な解説風に書けば、田舎の自給自足の生活と、ぶっきらぼうだがどこか優しい田村によって千鶴が癒されてゆく話である(こんな書き方をするととんでもない駄作に見えちゃいますけどね)。
で、いずれにしても(こんな書き方するのもまた語弊があるけど)大した話じゃないので、圧倒的な感動が得られるという類の映画ではない。でも、大変巧い。これが長澤監督の技量だと思う。
『夜のピクニック』の校庭のシーンのような長廻しこそなかったものの、画作りは非常に多彩で、かつ丹念である。
映画の冒頭、千鶴が「たむら」に着いて2階の部屋に上がって腰を落ち着けるまでの一挙手一投足を、カメラを切り替え切り替え、とても丁寧に追うのを見て、観客は息を呑むことになる。
カワイのピアノが置いてある崩れかけたあずま屋の中から格子のガラス戸越しに切り取られる加藤ローサのアップ。
スーパーマーケットでの千鶴にカメラがズームインしながらドリーバックする(あれ、逆だったかな? どうも記憶がはっきりしない。いずれにしても人物の大きさを変えずに背景の大きさを変えて行くテクニックだ)。
眼鏡橋のシーンでは初めてクレーンカメラがセットされ、動きの大きな画を作っている。
そして、そういう数々のテクニックにもまして、ロケ地の風景が持っている怒涛の美しさを見事に切り取っている。山、木々、星、月、風のそよぎ、畑、坂道、そして海、舟、電車の駅。
ところどころに配された強い台詞が利いている。
「そんな自殺の名所があったのなら、教えてくれれば良かったじゃないですか」と何度も何度も半泣きで言う千鶴。
彼氏(郭智博)にメールで自殺すると伝えたつもりが別れ話だと解釈されていたことが判って、「だめじゃん、全然伝わってない。全然だめじゃん」とここでも半泣きになる千鶴。
泣きそうになると下くちびるを突き出して前髪に息を吹きかける千鶴の仕種。
「自分の日常を作らなきゃ」と、都会に戻る決心をする千鶴。
眼鏡橋の上で千鶴を抱きとめ、いろんなことを思い出しながら遠慮のない千鶴評を展開する田村のあったかい言葉。
さて、ここまで来ると、この映画、どうやって終わるんだろう?という疑問が焦点になってくるのだが、うん、ああいう風にして終わるしかなかっただろうね。
お互い淡い恋心が芽生えていることはどの観客にも解る。でも、ああいう幕切れにしないことには嘘っぽくなってしまうのである。
熊木杏里のエンディングが良かった。楽曲そのものの素晴らしさと、映画に対する適合性の高さと。
初めに書いたように、大した話ではないので大した感動はない。でも、監督の巧さははっきりと感じられる。加藤も徳井も名人級の演技とは言えなくても、あそこまでできれば上出来である。加藤と郭は『夜のピクニック』に引き続いての長澤作品出演である。そして、脚本の三澤慶子、撮影の小林基己も前作と同じ。
次はこの監督のチームがどんなキャストでどんな物語を撮るのかとても楽しみである。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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