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Saturday, November 29, 2008

Man is mortal

【11月29日特記】 「喪中につき年末年始のご挨拶ご遠慮申し上げます」──今年もそんな葉書がぱらぱら届く季節になった。

どうしてなのか自分でもうまく分析できないのだが、僕は人が死ぬということに対してあまり大きな感情の動きを覚えない。人生において深くかかわった人が死んだ折にも泣いたりした記憶はない。

冷たい人間なのかもしれない。いや、自分では自分を冷たい人間だと断定するだけの自信がない。ただ、外から見ればそういうことなのかもしれない。

もちろん僕だっていろんな人が死ぬたびにそれぞれにいろんな感慨を覚える。しかし、その感慨の大部分は「ああ、人は死ぬんだ」という共通の感慨なのである。特定の個人(故人)に対する思いよりも、いつもそういう前提にたどり着いてしまうのである。

今年来た喪中葉書で最初に驚いたもの:昔一緒に仕事をした会社の、僕より少し年下の女性から来た葉書。彼女は今仙台に住んでいる。

「ああ、お父さんかお母さんが亡くなったのかな」(まさに僕らはそういう年代なので)と、割合いい加減に目を通したら、ご主人がクモ膜下出血で急逝されたとのこと。

さすがに驚いた。なんと言って良いか判らない。「私たち家族は『日にち薬』たるものを常用し、日々、踏ん張っている次第です」と書いてある。

死ぬ本人も死なれる遺族も、まさか死ぬとは思っていない年齢の人間が死ぬのって如何許りのものか。ああ、人は死ぬんだ、とまた思った。

それからもう1通:これは誰かと思ったら、1月に亡くなった元上司の奥さんから(「未亡人」という表現は良くないので敢えて使わない)。

これって、どうなんだろう。もちろん亡くなったことは知っている。葬式にも出たんだから。でも、遺族は葬式に来たかどうか、そもそもなくなったことを知っているかどうかを調べてから欠礼葉書を出すような面倒はやってられないだろう。

しかし、僕が年賀状のやり取りをしていた(ここ数年は僕のほうはクリスマス・カードに変わっているが)相手は亡くなったご当人であり、奥さんではない。なのに、奥さんから葉書が来た。これって、もらう必要があったのだろうか? それともこの葉書は何かを訴えているのだろうか?

そして、こんなことを書いていると、もうひとつ特徴的な事例を思い出した:これも会社の大先輩から来た手紙。

彼は何年か前に定年退職になっていたので、僕らは彼が病に伏せっていることさえ知らなかった。そしてある日突然訃報が届いたのである。

ところが、その数日後、亡くなったはずのご本人から封書が届いた。よく知っている、あの癖のある筆跡である。あの人の自筆であることは間違いない。

封を開くと、その文章はこんな感じで始まっていた:「あなたがこの手紙をお読みになっているということは、私はすでに天国に召されているのでしょう」

人は死ぬのである。この人はそのことをよく知っていたのだ。

僕が泣かないから、あるいはわざわざ自宅にお参りに行ったり励ましの電話やメールをしたりしないからと言って責めないでほしい。いや、別に責めてくれたって構わないけど、僕は責められて然るべきだとは思わない。

多分「日にち薬」しかないのである。死者に対しても遺族に対しても僕は余計者だ。

僕はただ一人離れたところで、「ああ、人は死ぬんだ」と思うだけである。

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