映画『トウキョウソナタ』
【10月13日特記】 映画『トウキョウソナタ』を観てきた。
ひとことで言って、「で、それがどうした?」っていう映画なのである。なのにどうしてそこに人は光明なり安らぎなりを感じてしまうのだろう?
ドビュッシーの『月の光』を最初から最後まで聴かせたのが良かった。例えばベートーヴェンの『月光』ではなく、この曲を選んだのは正解だった。そう、それは観客の目に見え耳に聞こえる数少ないテクニック的な面。
でも、見ていて聞いていても、観客にはこれがそうだと見破れない聞き分けられない何かが黒沢清にはある。
ストーリーを書いてしまうと理解の仕方が画一的になるのを助長するようで嫌なのだが、とりあえず、簡単に書いておく。
父(香川照之)はリストラされるが、自らの威厳に拘って、家族には言えないまま。長男(小柳友)は誰にも相談せず米国の軍隊に入ることを決める。次男(井之脇海)は父に反対されたので給食費をくすねて勝手にピアノ教室に通い始める。
この3人の説明に続いて、パンフや新聞雑誌などの解説では「バラバラの家族」という表現とともに、必ず母(小泉今日子)が3人との並びで語られる。何があっても夕食を作るとか、夫が箸をつけるまで何も食べないとか、せっかく作ったドーナツを誰も食べてくれないとか、家族に内緒で運転免許を取ったとか・・・。
だが、僕はこの家族においては母だけが明らかに異質であると思う。母は中心にいた。求心力そのものだった。そして、そしてその母を外側に向けて動かす触媒となったのが役所広司が演じた闖入者であった。
香川照之のインタビュー記事で読んだのだが、黒沢清監督はよく「はい、そこからここまで歩いてきてください。で、一旦そこで立ち止まってください。立ち止まる意味は別にありません」みたいな指示を出すらしい。今回もやはり「意味はありません」を連発していたらしい。
それは脚本の1行1行に何かと意味を見出そうとする役者を制するためらしい。香川照之も若い頃に黒沢作品に出たときに頭の中が「解釈」一杯で現場に行くと「意味はない」と言われてなんかガツンとやられたような気分になったらしい。
ここから先は僕の解釈なのだが、つまり大切なのは役者がどう考えるかではなく観客にどう見えるかということであり、黒沢清という監督は観客にどう見えているかが非常によく解っている監督であり、画面に切り取るという作業が非常に巧い監督だということである。
今回も、構図と言い、役者の表情と言い、光の揺れ方、ノイズの入り方、絶妙のところを切り取って画面に固定している感がある。
最近ホラーが続いていたせいもあってか、カメラワークがホラー的な冴えを見せているように感じた。
「潰れちゃえ、そんな威厳」とか「自分はひとりしかいない」とか、そういう台詞の冴えも相俟って、怖い!と思うシーンがいくつもあった。小泉今日子が青いコンバーティブルのルーフを開けるシーンとかね。
(余談だが、小泉がかつて「赤いコンバーチブルからドアを開けずに飛び降りてミニのスカートひらりで男の子たちの視線を釘づけ」にしていたなんてったってアイドルだったのを思い出した)
精緻なドラマだった。終盤少し寓話的になったが、今の世の中には少し寓話が必要なのかもしれない。
小泉の運転シーンの一部が今どき珍しい丸わかりの合成だったのだけがちょっと興醒めで残念。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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