映画『蛇にピアス』
【9月27日特記】 映画『蛇にピアス』を観てきた。
本来決して見たくない類の映画なのである。ただ、『転々』以来ずっと応援してきた吉高由里子の初主演晴れ姿を見に行かない訳には行かないと思って。で、贔屓目なしに言って、彼女としては大成功ではないかな。
『日経エンタテインメント』の記事で初めて知ったんだけれど、彼女アミューズ所属なんですね。アミューズでは今までにないタイプですよね。アミューズ所属の女優と言えば、どうしても深津絵里と奥山佳恵のイメージ。あと、上野樹里とか板谷由夏とかね。最近では『純喫茶磯辺』の仲里衣紗なんかもそうなんだけど、その誰とも違う。
まるで糸が切れた凧みたいで、でもそれが管理できなくて困るという感じではなくて自由で良いなあというイメージがある。
この映画の主演が決まった時も、彼女は蜷川幸雄を知らなくて、「てっきり稲川淳司に会いに行ったつもりが知らないおじいちゃんが座っていた」などとインタビューで答えており、そんな記事がウェブにも上がっていたのだが、さすがに世界のニナガワに対して失礼だということになったのか、最近の記事では「蜷川さんに会ってみたかった」みたいな表現に見事に差し替えられている。
で、監督はその世界のニナガワなのだけれど、この人映画監督としてほとんど大した評価も受けていない。ただ、この原作に興味を持って映画化してみようと思う72歳というのも凄いなあと思うし、若い役者に押しつけたりもせずに好きなようにやらせた後で「何でそうやったの?」と訊いたり、「あ、そっか、そういうこともあるか」と納得してたと言うから、そういうやり方が今回はすごく良かったのではないかなあと思う。
一瞬「娘に撮らせたほうが良いかな」という思いもよぎったらしいが、それだけはしなくて良かったと思う。
さて、話は元に戻って、何故この手の映画は見たくないかと言うと、僕は切ったり刺したりするシーンは大の苦手なのである。痛いのも痛そうなのも、痛かったんだろうなと思うのも嫌で、ほんとは他人の耳のピアスを見るのも気が進まないのである。
ところがこの映画はまず"スプリット・タン"である。シタピ(舌ピアス)のサイズを段々大きくして行って最後は糸で先っちょを縛って切り離すと蛇のような二股に分かれた舌のでき上がりとなる。
それから刺青である。肩にちょこっと碇のマークのタトゥなんてもんじゃなくて、背中全面に龍と麒麟である。
映画を見ながら何度身体を強張らせてのけぞったことか。目をつぶってしまっては見にきた意味がないので、片目と薄目でなんとか見届けたけど、背筋も凍るとはこのことだ。本当にやっているのではないと分かってはいながら、CGの進歩を恨んだ。
そういう訳だから当然原作の小説も読んでいないのだが、映画を見る限り、小説のほうは多分非常に良いのだろうなあという想像はついた。「俺は人間の形は変えない」とか「私の中に川ができた」とか、台詞の言葉にいちいち切れと力がある。
ただ、読者が行間を埋める必要のある小説ではなく、映像を網膜に畳みかけてくる映画という手法になると、僕なんかにはちょっとキツイのである。痛くて見ていられない。
確かに「痛みでしか生きているという実感が得られない」ということを、ひとつの比喩としてなら理解はできるのだけれど、実際体を傷つけるとなると、いやいや、勘弁してくださいよ、となる。
描かれているセクスもそう。SMも僕が理解できないもののひとつで、首絞めて、後ろ手に縛って、後背位でぶちこんで、うーん、どうしてそんなことしたくなるんだろう?
だけど、アマを演じた高良健吾もシバを演じたARATAも異口同音に「スプリットタンやピアス、タトゥーに対して偏見は全くないし、芸術のひとつとしてみれば、綺麗だと感じる」「SEXのときに首を絞めるのも、ノーマルな行為ではないけど、とりたてて変だとは思わない」と語っていて、やっぱり僕とは千里の径庭がある。やっぱりこれは僕とは違う人たちの物語なのだという思いは拭えない。
というようなことを書きながら、今度はそれと矛盾したようなことを書くのだが、これは(僕などからみれば)猟奇的な異端の世界を描いているようでありながら、実は純愛物語なのであるということを強く感じた。
結局のところよく理解はできなかったのだが、見終わっていつまでたっても心がザワザワした感じのままだ。そういう映画ってたいてい良い映画なのだ。
吉高由里子の魅力は全開である。
そして、小栗旬とか藤原竜也とか唐沢寿明とか、ものすごい人たちがチョイ役で出てくるのは、さすが世界のニナガワである。
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