映画『グーグーだって猫である』
【9月7日特記】 映画『グーグーだって猫である』を観てきた。
- 僕自身猫を飼っていたことがある(12年生きて死んだ)
とか、
- 吉祥寺から中央線で1駅の西荻窪や井の頭線で3駅の久我山に長らく(独身・新婚・単身で合計13年)住んだ経験があり井の頭公園にも何度も行った
とか、
- それほど熱心なファンではないが長きに渡って小泉今日子にはシンパシーを抱いている(持っているCD5枚、著書1冊、映画館で観た映画はこれが14本目)
とかいうことも多少影響はしてるだろうが、そういうことは抜きにしてもそこそこの共感は得られる映画だったのではないかな、と今思っている。
ただやっぱり猫と暮らしたことがあるか猫好きであるか、あるいは原作漫画を描いた大島弓子のファンであるか──その辺の要素がある人のほうが楽しめるのは確かだろう。
ただ、誤解のないように書いておくと、これは決して猫の映画ではない。人間の映画である。あるいは人間と人間と猫の映画である。つまり、人間と猫の関係に焦点を絞った映画ではなく人間と人間の関係に猫が入り込んでくる映画である。
主人公の麻子と猫のグーグーだけが描かれるのではなく、その周りでもう少し若い人たちのぼんやりとした不安感や焦り、そして愛着も同時に描かれていて、その感じが何とも言えず良いのである。
ではどこが良かったか述べてみろと言われても決して明快に「ハイ、それはこれです」とは言い切れないところ、そして、映画でなければ決して表現できないものを表現しているところ──それがこの映画の偉いところだ。
単純にまとめられるようなことを言いたいのであればわざわざ映画になんかする必要はなくて、その単純な言葉で語れば良い。映画でなくても語れるのであれば、小説なり芝居なり他の形でやれば良い。映画は複雑で総合的なメディアなのである。
犬童一心監督の仕事が優れて映画的なわけは第一にその"えぢから(画力)"にある。
天才漫画家・小島麻子(小泉今日子)の初代の飼い猫・サバが、死ぬ前に半分開いたスライドドアの間から仕事中の麻子の後姿を見ている構図、翌朝サバが死んでいることに気づいた麻子がサバに近寄るところからいきなり外からの窓越しの画に変わるところ、サバの葬式のときに斎場の黒い半透明のドアが半開きになった室内から外の麻子を捉えた画。
入院することになった麻子がグーグーの世話を頼むためにアシスタントのナオミ(上野樹里)のアパートを訪ね、アパートの前まで見送りに出たナオミが泣きだして、麻子がそこまで戻って抱き寄せるシーン──何故2人は画面の中央ではなく上手の下半分に小さく捉えられてアパートの全景が収められているのか? 下手に歩き出した麻子がナオミのところに戻ってくるところをカメラを動かさずに撮りたかったから──というのは誰でも思いつく答えなんだろうが、でも、抱き合った2人が"きれいに収まる"のはやっぱりあの位置なんだと僕は思うのである。
この映画ではストーリーはエピソードの積み重ねであり、それほど大きなうねりはない。カメラは時々猫の視点になる。現実と幻想の区別がわざと曖昧に作ってある。──あの公園でのチャンバラは何だったのかとか、ナオミが恋人のマモル(平川地一丁目の林直次郎)と浮気相手の女子高生(柳英里紗)を追っかけるシーンの必要以上にコミカルにデフォルメした感じとか、あれは一体何だったんだろうと考え始めると途端に解らなくなる。
パンフによるとポスプロで説明的な台詞や要らないカットを相当落としたと書いてあるので多分編集で切っちゃったんだろうけど、麻子が沢村(加瀬亮)に「2つあります」と言ったのにその時はひとつしか語らず、その後結局語らず仕舞いになってしまって、あれは一体何だったんだろう、とすごく気になるのだが仕方がない。
恐らく、(こんな風に書くと随分都合の良い表現になってしまうけど)説明して解ってもらうよりもただ感じてもらうことを念頭に置いてポスプロに臨んだのだろう。
吉祥寺の英語教師ポール(マーティ・フリードマン)が吉祥寺の街を語り(後に別の役で再登場するが)、麻子の弟子のナオミが麻子を語るという2重構造も大変良かった。
ところでナオミを演じた上野樹里であるが、僕は『スウィングガールズ』を観て「間違いなくこの子はこの映画だけで消えてしまう」と思ったのだが、とんでもない思い違いで、だんだんすごい女優になってきた。
並みの俳優ならそれぞれ単色の表情を切り替えて演技をするのだが、彼女は表情のミックスやグラデーションができるのである。今、若い世代でこんな演技ができるのは池脇千鶴と上野樹里だけではないかと思う。
そう言えばこの2人は同じく犬童一心監督の『ジョゼと虎と魚たち』で共演してた(と言っても一緒に出るシーンはなかったが)。犬童監督は後に池脇を『金髪の草原』で、そして上野をこの映画で使っている。彼にもちゃんと2人の凄さが解っている、と言うかちゃんと評価しているということだ。
例によってろくにストーリーも紹介せず、どんな映画か調べようとして見に来た人には何の足しにもならない記事になってしまったが、まあ、良い映画であるということだけはしっかり書いておきたいと思う。
じんわり来るよ。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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