『早わかり世界の文学』清水義範(書評)
【9月5日特記】 自分のホームページに以前書いたことがあるのですが、僕は清水義範は僕の双子の兄弟だと思っています。
僕と似ているというようなものではありません。僕が普段から考えているのとほとんど寸分違わないことを書く作家だという感じなのです。だから読んでいて「へえ」とか「なるほど、確かに」とか「目から鱗が落ちた」なんて思うことまずありません。「この人は僕だ」という感覚なのです。
ただ、今回この本を読んでみてよく解ったことは、この人は僕より遥かにたくさんの本を読んでいるということです。この本は、お題がお題だけに数多くの世界の古典文学を取り上げています。
一方、僕はといえば過去の名作よりも今を生きる同時代の作家の労作を読みたいという気持ちが強い分、古典を読むのは自ずから疎かになります。しかし、だからと言って、この本に取り上げられている小説を僕がほとんど読んでいないのは、僕と彼との読書傾向がずれているということを物語っているのではないはずです。
多分清水は僕が読んでいる現代小説もたくさん読んでいて、僕が読まない時代小説や古典文学も同じくたくさん読んでいて、全体的に僕より遥かにたくさんの量を読んでいる人なのでしょう。でなければこんな本は出せないはずです。
今回も書いてあることはまことにすんなり僕の頭の中と心の中に入り込んできます。非常に説得力があるとか文章が上手いとかじゃなくて、単純に「同感」の2文字なのです。
「そういうふうにひとつの小説を読むだけで、簡単に言うと、自分以外の人間にも心の動きがあるのだということを、小説は教えてくれるんです。(中略)小説をひとつも読んでいない人というのは、そういうところがね、何か、多分、欠けているのではないかと思うのです。他人も他人で生きているとか、私とは別の心があるのだ、ということについ想像力が及ばなかったりするわけです」(79ページ)。
「私の作文教室では『なんでも書け』と言っているわけです。(中略)世の多くの学校の先生は、子供が『昨日、私は道で困っている人がいたので(中略)助けてあげました』と書くと、『いいことをしましたね』と書くんですよ。ところが、『いじめました』と書いたら、指導のところに『友達同士は仲良くしましょう』と書くんですね。それというのは、作文の指導じゃないんですよ、実は。作文の指導の時には、『そのなぐりたい気持ちがよく伝わってきたよ』という点を評価すべきでしょう?」(148ページ)
どうです? こんな調子でパロディ/パスティーシュ論、ユーモア小説論、読書論、作文論、そして、「私が決める世界十大小説」が語られるんです。あなたにとっては双子の兄弟ではなく赤の他人ですか?
いや、この本を読んで親近感が持てるかどうかはタイトルを見た時にどう感じたかで瞬時に判別できるはずです。僕はこれをみてニヤッと笑ってしまいました。この一見もっともらしいタイトルは、安直な出版物ばかりが好まれる世間の風潮に対する揶揄であり、同時に作家本人に対するセルフ・パロディでもあるのです。
こんな本を読んでも世界の文学が一気に解ったりはしません。ただ、「もうちょっと本を読んでみようかな」なんて気になってくれる人が出てくれば、それこそ著者の狙い通りと言って良いのではないかと思います。
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