『東京島』桐野夏生(書評)
【8月14日特記】 この小説は我々が「無人島」とか「漂流記」とか「サバイバル」とかいう言葉から連想するものとは少し違っている。帯に書いてある宣伝文句:「生にすがりつく人間たちの極限状態を容赦なく描き」というようなものでもないと思う。
こういう表現をするとかなり語弊があるとは思うが、僕は読んでいてもう少し気楽なものを感じたのである。他の読者の方はそんなことないんだろうか?
無人島に流れ着いた者たちが生きて行くということは、どのレイヤーで切って考えても、とても大変なことであるはずだ。しかし、その一番根源的なレイヤーの記述がこの小説では省かれているのである。
まず、この島には果物類がふんだんにあった。動物性蛋白質を摂るのが少し大変なようではあるが、我慢して食べれば貝や蛇やトカゲはかなり取れたようでもあるし、たまには野ブタなどというメニューも登場している。飲み水はどうしていたかについてはほとんど記述がない。
簡単な釣りの道具を作って魚を獲っていたように書かれているが、何もないところから竿や糸、そして釣り針なんてそう簡単に作れるものではないはずだ。だが、そういうものを作る労苦についても一切言及がない。そして、まず何よりも最初の難関であったはずの火熾しの方法についても記述は完全に省かれている。
何故ならば、これはそんなことを読ませる小説ではないからだ。
こういう表現もまたものすごく語弊があるだろうが、僕はこの本は俗にいうサバイバル小説なんかではなく、よくある質問:「ねえ、無人島に何か1つだけ持って行けるとしたら何を持って行く?」の延長線上にある命題だと思う。
極限的に簡略化された世界で、それぞれの人間が何を糧として、何を心の拠り所として、何を矜持として武器として特色として生きて行くのか──そのことが丹念に丹念に書かれた小説であると思うのである。
主人公の清子にとってそれは性、つまり自分が女であるということであった。彼女はそれを糧として、心の拠り所として、矜持として武器として特色として生き抜いたのである。彼女が島でたった1人の女であるということ、しかもやや盛りを過ぎた中年女であったということはそのことを描くための舞台装置でしかなかったのである。
つまり、大勢の漂流民の中に女が1人だけ混じっていたらどうなるかを描くために清子を登場させたのではなく、女であることを前面に打ち出して生きるヒロインを描くためにそういう極限的な設定を用意したにすぎないのだと思う。
清子以外の大勢の登場人物についても、結構行数を割いて彼が何に生きて来たのか、これから何に生きて行くのかということが丁寧に丁寧に書いてある。そして、それこそがこの小説の主題であると思うのである。だから、割合ご都合主義の設定や展開もそれほど気にはならない。
最後の、あのあっけらかんとした結末についても、僕は如何にもこの作家らしいものだと思った。まあ、人間、最後はなんとかなるもんですよ、それぞれその人なりにね──と作家が言っているような印象を受けた。
僕にはこの小説はそんな風に読めた。最初に書いたように「サバイバル小説」みたいな雰囲気はまるで感じなかったのだけれど、どうなんだろ、他の読者の方とは随分違った読み方なんだろうか?
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