映画『歩いても 歩いても』
【7月20日特記】 映画『歩いても 歩いても』を観てきた。
だめだ、こりゃ。全然歯が立たない。手も足も出ないとはこのことだ。桁違いに凄い作品に出遭ったとき、後に残るのは感動でも羨望でもなく、惨憺たる敗北感である。今、僕は敗北感に塗れている。
この映画のストーリーをまとめると:
普段は2人暮らしの老夫婦(原田芳雄・樹木希林)のところに2人の子供たち(YOU・阿部寛)が家族を連れて帰ってくる。この2人には実は兄がいて今日がその命日なのである。如才のない姉(YOU)は両親の家を改築して2世帯同居しようと提案しているが、母は明快にイエスの返事をくれない。弟(阿部寛)は、元医者であり何かにつけて高圧的な父に反発しているが、自らは失業中で恰好がつかない。そして最近結婚した彼の妻(夏川結衣)は再婚(死別)でしかもこぶつき。連れ子の男の子は彼を「良ちゃん」としか呼んでくれない。
──なんてことになるのだろうが、こうやって書いてしまうと実は全然違う世界になってしまうのである。
切り揃えられた情報がいっぺんにぽんと届くわけではないのである。川本三郎がパンフレットで解説しているように、観客は観ているうちにこういうことが「徐々に分かってくる」のである。時間が経つごとに少しずついろんなことを了解して行くのである。自分なりの解釈を成立させて行くのである。
ことは冒頭だけの話ではない、映画の最初から最後まで、我々観客はずっとこんな風にして映画の中の家族のことを少しずつ深く見知って行くのである。
そして、川上弘美がパンフで指摘しているように、「そういえば、普通に生活していて出会う人たちのことも、いつもこんなふうに、わたしたちは知るのだった」。そう、これはまるで映画ではないような映画だった。
川上弘美も触れているが、この映画は人参と大根の2ショットで始まる。手前が人参、奥が大根。ともに人間の手に握られていて、その2人とおぼしき人物の他愛ない会話が聞こえる。
手前の人参は包丁で手際よくささがきにされて行く。奥の大根はなんとピーラーで皮が剥かれて行く(これには驚いた。まあ、大根を1本丸ごと皮を剥くということ自体があまりないということもあるが、僕は人参にはピーラーを使うが大根は包丁でかつら剥きにする)。カメラが少し引くと、手前の人参は樹木希林で奥の大根がYOUだった。
──こういうところからもいろんなことが観客に伝えられる。性格の違いと取るのか料理経験の差と取るのか普段の生活様式のせいだと考えるのか、もちろんどこをどう読み取るかは観客次第なのだけれど、野菜の2ショットがこんなにも情報量多く語るのである。
一事が万事そうなのである。風呂場の剥がれたタイルとか、買ってあった息子用のパジャマとか、台所に落ちていたパチンコ玉とか、長押に掛かっているクリーニング済みの衣類とか、片方だけ真っ黒に汚れた靴下とか、そういういろんな物が次から次へと観客の脳を刺激して行く。もちろん物だけではなく、人物のちょっとした台詞も。
さて、野菜の後は原田芳雄の散歩のシーンだ。彼が歩くにつれてカットが変わる。前から後ろから横から上から、見ていて「おっ、次はそう来ましたか」と呟きそうになる。それぞれの構図がいちいち見事である。もちろん構図に必然性はない。センスの問題だ。映画やカメラの勉強をしている学生たちには相当参考になるのではないかと思った。
そして原田の散歩と母娘の料理の手許のアップが交互に繋がれている。この野菜や包丁やざるや出来上がった料理の画がまた素晴らしい。
何がどうなる話でもない。誰それがこれこれこういう理由でこれこれこんなことをしたら、その結果こんなことになりました──というようなストーリーではないのである。家族がいて、そのそれぞれの構成員が非常に多面的に映し出されている。でいて、深い感慨がある。
どうしてこんなストーリーで映画を撮ろうという発想に至るのか?
しかも、どうしてそれがこんなに素晴らしいのか?
凄い脚本だと思った。僕には到底書けない。
じゃあ、お前にはどんな本なら書けるのか?と言われると、多分どんな本も書けないのであるが、世の中には「これなら俺にも書ける」と思える脚本も滅多にないが、ことさら「これは俺には絶対書けない」と感じてしまう脚本も稀有であるはずだ。これはそういう本なのである。
監督の是枝裕和はパンフのインタビューに答えてこう言っている:
注意したのは、ストーリー上の都合に合わせて登場人物を動かさないことです。例えば日常においても、「こういうとき、うちの父親なら絶対こうは言わないな」と思うことってありますよね。展開のスムーズさよりも、むしろそういう感覚を大切にしています。
──これだけは僕が普段あちこちに書いていることと完全に一致する。映画を見終わって唯一敗北感を感じずに済んだ、いや、歓びを覚えた点である。
しかし、それだけでこの圧倒的なリアリズムは生まれて来はしないだろう。そこには何かがあるはずなのである。是枝にはあって僕には欠けている何かが。
終わり近くにまた散歩のシーンがあって、それからバス停での別れがあって、そして唐突に阿部寛のちょっとむごいようなクールなナレーションがあって時代が飛ぶ辺りも素敵だと思った。
突然妙なことを書くが、小学校の国語の授業で僕らはよく「作者が一番言いたかったことは何か」みたいなクイズをやらされた。僕はこの映画はそういうことに一番向いていない教材だと思った。問題は作者が何を伝えたかったかではなく、僕らが何を感じられるかなのである。
是枝は決して伝えよう伝えようとしてはいない。どうすれば伝わる幅が広がるか、伝わる深さが深まるか──彼はそういうことに腐心していると思う。その結果、とても多くのことが観客に伝わる。あまりに多すぎて消化しきれないほどの情報が伝わる。
映画を見終わって、僕らはようやくそれを消化し始める。多分、是枝が感じていたことと中心はそれほどずれずに、でも決して全く同じでもなく。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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