『終わりの街の終わり』ケヴィン・ブロックマイヤー(書評)
【7月18日特記】 帯の宣伝文句によると「もっとも有望な若手アメリカ作家」なのだそうである。だが、残念なことに日本の読者なら誰もが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を思い出し、その二番煎じであるような印象を持ってしまわないだろうか?
奇数章と偶数章で全く舞台を異にする2つのストーリーが同時進行する。ひとつはどこだか分からない不思議な世界。しかし、読み進むうちにそれがある種の死後の世界だということが判る。そして、もうひとつは南極でコカ・コーラ社のプロジェクトに従事している3人組が、本国との連絡が絶たれて孤立し、遭難する話。
さて、この2つの舞台が終盤でどう繋がるのか、というのがこの小説のキーであり、あれ?村上春樹にそんな小説あったよな、と思ってしまうポイントでもあるのである。
「終わりの街の終わり」という少し村上春樹っぽい(訳者も同じイメージに引っ張られたのではないかな?)意味深長な邦題がついているが、原題は The brief story of the dead という、これまた如何にもアメリカらしい味もそっけもないものである。
訳者がこれを直訳せず、日本独自のタイトルを考案しようとした気持はよく解るのだが、しかし、この邦題は物語の結末をあまりに直截に語ってしまわないか?
原題を見る限り著者は、第1章が死者の物語であることは初めから手の内を明かすつもりであるのが判る。しかし、それがどうなるかはやはり伏せておきたかったのではないだろうか?
ただ、この小説はそういう謎解きをするミステリでもなければ、怪奇現象を解明するSFでもない。巻末の解説にあるようにこれは現代アメリカ小説に目立ってきた「ジャンルの枠組みを超えた作品」である。
しかし、形式はどうあれ、ここで展開されているのは極めて小説的な、つまり伝統的純文学的な小説世界なのであって、あまり今まで小説に馴染んでこなかった読者にとっては中途半端な尻切れトンボに思えるものかもしれない。──何も解決しないし、何も解明されない。
しかし、そこに余韻が残るのである。これを寓話と見るか、あるいはもっと詩的な作品と読むか、それは読者の志向性による。ただ、ひとつ言えるのは、読み終わって、すぐではなくても、いつの日かもう一度読み返してみたい小説だという気がする。
これも巻末の解説で指摘されているように、全般にキャラクターが弱い。だから、誰が主人公なのかということさえ、あまり際立ってこない。さすがに偶数章のメイン・キャラクターであるローラ・バードの名前は憶えるのだが、いろんな形で彼女に関わってくる他のキャラクターの名前がなかなか頭に入らないのである。
もう一度読み返してみたいと思うのは、もちろんそういう背景のせいでもある。しかし、それだけではない。よく解らないが魅かれるものがある。それが何なのか、もう一度読めば解るような気がするのである。
そう、読者をそういう地点まで引き連れてきて、そこでプツンと終わってしまう、まさにそこがこの有望な若手アメリカ作家の味なのだと思う。読み終わってからも思念は脳内をぐるぐる回っている。
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