映画『純喫茶磯辺』
【7月15日特記】 映画『純喫茶磯辺』を観てきた。
当初あまり観る気はなかったのだけれど、まあ、これも何かの縁だから・・・。
どういう縁なのかはこの過去記事(の本文とコメント欄)を読んでください。
で、小さな劇場であるとは言え、そして、今日は男性サービスデーで入場料が1,000円ぽっきりだったとは言え、平日の夜でほぼ満席と言うのはかなり立派な入りである。
しかし、始まってすぐにちょっと嫌な感じ。
オープニングが薄い頭髪の真上からのアップだったり、その後のシーンではDVEで画面を左右に2分割して、そのそれぞれのフレームの中を父と娘が逆方向に歩いたり、というトリッキーな構図続きで、まあ、面白いっちゃあ面白いんだけど、あまり意味がないなあ、などと思いながら見始めた。
ところが、映画が進むにつれてそういうマイナスの印象は見事に払拭されてしまった。ホントに本がよく書ける人である、吉田恵輔という人は。監督としての評価をする前に、この脚本ができた時点でもう否定のしようがなくなっている。
言葉が上滑りする感じ。こういう感じの会話って、そう簡単に書けるものではないだろう。
見事に自然に言葉が溢れだし、それが止めどなく上滑りして、それを受けて返す言葉も淀みなく、しかし同様に上滑りして、そして途端に相互に言い淀んでしまう。
役者が良いから余計にこの台詞のやりとりが見事なリアリティを帯びてくる。
離婚した父親・磯辺裕次郎に宮迫博之──この人は吉本とか漫才師とかいう次元の人ではない。それでも主演は『蛇イチゴ』以来6年ぶりとか。
その裕次郎の父親が死んで遺産が入り、もともといい加減に生きてきた彼は暫く仕事もしないが、ある日思いついて喫茶店を開業することにする。これがまた信じられないほどダサダサの「純喫茶磯辺」。
その父親と同居する女子高生・咲子に仲里依紗──若いけどこれがまさに驚異的な女優だ。その自然な台詞廻し。そして感じさせる息吹。上手いだけでなく自分をちゃんと魅力的に見せる技量。
この映画を吉田監督の前作『机のなかみ』と比べて、飛躍的に質を高めているのは明らかにこの2人をはじめとする出演者たちの圧倒的な演技力である。下手糞としか言いようのないあべこうじ+可愛いけど演技はどうしようもなくぎこちない鈴木美生という組合せと、安定して「いかにも」「らしい」演技のできる宮迫+奇跡的な好演と言って良い仲。
この差が決定的である。
そして、それ以外の出演者である、純喫茶磯辺にバイトで採用された(その理由は単に裕次郎の下心である)26歳のKY女・モッコ役の麻生久美子、裕次郎の別れた妻役の濱田マリ、そしてひと癖もふた癖もある喫茶店の客たち(ダンカン、和田聰宏、ミッキー・カーチス、斎藤洋介)など、いずれもこの本当によく書けた脚本を忠実に体現して、本当に立派な映画ができあがっている。
パンフには「愛すべき短所を持ったキャラクター」という表現がなされているが、初めからそんな都合の良いものを狙っても的外れになるのが関の山だ。この映画の人物のリアリティは、見始めた時には決して「愛すべき短所」だなんて思えないということだ。
むしろ遠慮なく短所が剥き出しにされ、加えて言葉が上滑りすることもあって、何とも言えず間の悪い会話が続き、見ていて結構イライラしたりする。でも、それは僕ら自身も大差ないのである。そういう意味では血の通った人間が描かれているのである。──そういうことに観客は途中で気づくのである。
これは血の通った人間の話であるだけでなく、そういう人間同士に情が通う話なのである。いや、通わなかった情が急に通うようになる話ではない。あくまで時々情が通うのである。人生ってそんなもんじゃないかな?
そして、この映画は父と娘のぎこちないズレや反目を描いているようで、実は今時珍しい父と娘の心の交流を描いているわけで、それは父と娘だからではなくひとりの人間とひとりの人間という視点がお互いに確立したからこそ心が通うのであり、そこらへんがこの映画の素晴らしいところなのである。
終盤、ゴミ箱のシーンで咲子が急に今まで見えてなかったことに気づくシーンで、「あっ、なんだか急に直球になって来たなあ。良い話で終わらそうとしてちょっと勇み足になってしまったか。濱田マリが別れた夫を語るだけで充分だったのに」などと思ったのだが、そのままそこに落ちてしまう展開にはせず、終わってみたら程良いアクセントになっていた。
ともかく脚本が良い。役者が良い。上出来の映画である。キネ旬では『机のなかみ』は2007年度の45位。この映画の順位は多分その3分の1くらいにはなるのではないだろうか? 僕自身はもっと上位にランクするだろうが。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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