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Sunday, June 01, 2008

映画『接吻』

【6月1日特記】 映画『接吻』を観てきた。

街なかの階段を、ちょっと体を傾けながら登って行く男の後ろ姿からこの映画は始まる。男は坂口秋生(豊川悦司)。カメラは決してそこに寄ったりしないけれど、男の尻ポケットから金槌の長い柄が飛び出しているのが目につく。

そして坂口は鍵のかかっていない家を探して、そこの一家を惨殺する。

一方、同僚から蔑まれ、かつ都合よく使われている暗いOL・遠藤京子(小池栄子)。彼女がアパートの自分の部屋のTVで坂口の逮捕の瞬間(その瞬間を見せるために坂口自身が6局に連絡したのだ)を見る。そして、まあ、ひとことで言ってしまうと"ひとめぼれ"してしまうのである。

京子は公判を傍聴し、国選弁護人の長谷川(仲村トオル)に接触して、「差し入れをしたいのだが、見ず知らずの人からの差し入れは受け取らないだろうから、私のことを彼に伝えてほしい」という。訝る長谷川に対して「他人事とは思えない。親近感を感じる」と言う。

そこから京子の偏執的とも独善的とも言える坂口へのアプローチが始まる。だが、坂口もまた京子を自分と同じ種類の人間と見抜いて次第に京子を受け入れて行くのである。

この映画は、「ともに"異常者"である男と女を描いたものだ」という見方を許してしまうだろう。だから、見終わって「なんだ、この映画! こんな頭のおかしい奴の話見たって仕方がない。ああ、忌々しい。金をどぶに捨てたみたいな気分」と吐き捨てるように言う人もきっといるはずだ。

でも、なぜだか解らないのだけれど、そんな風に簡単に切り捨てる気にならない。いや、切り捨ててはいけないような気がする。でも、その一方で、やっぱり自分には彼らが何を考えているのか解らないし、やっぱり彼らは自分たちとは違う"破綻してしまった人たち"だという意識も残る。

そうやって見終わった者の心をざわざわさせてくれる。決して後味の良い映画ではない。だが、ものを考えさせる映画は良いメディアである。

ストーリーも怖いがカメラワークも怖い。監督はカメラマンには基本的な注文しか出していないと言っているけど、これは見事にアサインされたカメラワークだと思った。カメラマンは渡部眞──僕にとってはなんと1981年の『の・ようなもの』以来である。

冒頭のシーンで、ほぼ目の高さで坂口を追っていたカメラが、家に侵入した途端に玄関天井からの画に変わる──ぎょっとする怖さがある。

警察が坂口を逮捕に来たシーンで、高架を走っている電車から引くとその向こうに坂口のアパートがあり、階段を上って行く捜査員が映る──これもぎょっとする怖さがある。

弁護士事務所の階段のシーンも印象的だった──京子と長谷川の距離を感じさせる映像だ。

そして、坂口が法廷で初めて沈黙を破るかという瞬間、固唾を呑んで見守る京子を捉えるカメラは手前に焦点のぼけた坂口の口から下を入れ込んでいる──これも巧いと言うより怖い構図だ。

長閑な田園風景であるはずのものが悉く荒涼、殺伐とした映像となって切り取られている。曇天が多いのも特徴のひとつ。

人と人との会話のシーンではカット変わりが頻繁にある。多くは喋っている人物を、そして時には聞いている人物をアップで捉える。かと思うと、京子と長谷川が2ショットで喋っているシーンなのに、顔も確認できないほどロングで撮っていたりもする。

田舎道で立ち止まって京子と長谷川が喋っている。長谷川に背を向けて京子が歩きだす(画面の手前にやってくる)。長谷川は立ち止まったまま京子に長い台詞で語りかける──そのシーンでは、京子の動きに合わせてカメラはドリーバックしてくるので京子のサイズはずっと一定で長谷川のサイズだけが次第に小さくなるという面白い構図。

長谷川と京子が坂口の兄(篠田三郎)を訪ねたシーンでは3人の会話を(前述のとおりカットを切り替えながら)延々と映す。全然省略せずに会話の一部始終が収まったシーンだ。こういうのも珍しいし、見ごたえ/聞きごたえのあるシーンにもなっていたと思う。

見終わってやっぱり理解できないという思いは強烈に残る。でも、同時に京子が坂口に感じたものと比べると強さは何分の1なんだけれど、やっぱり親近感みたいなもの、いや親近感とまでは言い難いのだけれど、坂口とも京子とも、そして長谷川とも自分はどこかで繋がっているのではないかという思いも抱いてしまう。

京子の願いが叶って、隔たりのない部屋で坂口と会うことができる(もちろん荷物検査も済ませ、多くの人間の立ち会いの下だが)。そこで初めて、今まで面会室の透明アクリル板越しに話すしかなかった(京子が「石鹸の匂いする?」と言って手を出すシーンは印象的だった)2人が、タイトルにあるように『接吻』するのか、と思いこんで見ていたら、ぎょえっ、最後でえらいことになる。

接吻って、そういう接吻だったの?
で、それって一体何?と考え始めると明確な答えはない。

パンフに脚本家が最初に考えた解釈が載っているが、もちろんそれは一つの解釈に過ぎない。それは観客が決めることだ。そこで観客の心はざわざわする。

しかし、そんなことになる前に、あの瞬間に気づくだろう?
いや、分かったのだけれど、わざと止めなかった、いや、止められなかったのか?
で、あの接吻は何だ?

去年は6月時点で「これは凄い!」と思う映画がすでに数本あったが、今年は『人のセックスを笑うな』しかなかった。今年2本目の、圧倒的な凄みのある映画である。

仙頭武則Pのランブルフィッシュが制作。監督の万田邦敏はWOWOW時代に仙頭が手掛けていた J MOVIE WARS シリーズで『UNLOVED』という作品を撮り、2001年のカンヌでレイル・ドール賞とエキュメニック賞を受賞したと言うが、全然知らなかった。

それよりも、経歴を見ていて魅かれたのは『ドレミファ娘の血は騒ぐ』が万田と黒沢清との共同脚本であったということ。これでなんか急に親近感がわいたなあ。そう言えば、こないだ『山のあなた』で久々に洞口依子見たしなあ(元気そうで嬉しかった)。

おっと、ちと話が逸れてしまった。今回の映画は夫人の万田珠実との共同脚本である。

楽しい気分にはならないと思うが、見る価値は高い映画だと思う。

★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。

アロハ坊主の日がな一日

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