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Monday, June 23, 2008

浅野内匠頭を思う

【6月23日特記】 最近痛切に感じることがある。一連の事件に限ったことではない。ここ何年かの、世間を騒がせた事件に共通する話である。

いきなり変な喩えから書き始めて何のことだか見当がつかないかもしれないけど、赤穂浪士が江戸の庶民たちによって熱狂的に受け入れられたのは、あるいは、現代においてもその話が芝居の演目として非常に人気が高いのは、彼ら赤穂浪士が、彼らの主君・浅野内匠頭に赤っ恥をかかせた吉良上野介を成敗したからである。

まあ、現代の法の下で言えば、暴力によってものごとを解決しようとするのは大きな過ちである。いや、当時でさえ仇討は禁じられており、従って浪士たちは切腹せざるを得なかった。

それに、吉良上野介は実はそれほどの悪人ではなく、すべては傲慢で小心な浅野内匠頭の逆恨みだったという解釈/説もある。

逆恨みに基づいて47人が寄ってたかって吉良上野介をぶっ殺したとなると、こいつら飛んでもない奴らだということになる。

だが、それでも彼らは彼らが加害者であると考える吉良上野介に正面から向かって行ったのである(もっとも白昼堂々正面から行っても仇討は成就しないので奇襲作戦にはなったが)。それは部分的にではあるが、非常に正しいのである。

そもそも彼らの主君・浅野内匠頭も(殿中で刀を抜くというルール違反を顧みず)加害者である吉良本人に斬りかかったのである。それは根本的に間違ってはいるが、スタートの方向だけは見失っていないのである。

何が言いたいか?

浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかからずに「世間のみんなが俺をバカにしやがって」とそこらへんの侍に対して無差別に刀を振り回したり、赤穂浪士が吉良邸に向かわずに秋葉原や大阪駅の雑踏で無差別に刃物を振るったりしたとしたらどうだったか?

暴力を振るうことはもちろん悪い。でも、それ以前に問題なのは、それが全く当事者でない不特定の人間に向かっていることではないのだろうか?

不満があるなら、腹が立つなら、憎しみを覚えるなら、まずその原因となっている人物に対して怒りをぶつけるべきだろう。逆恨みと言われても、そのほうがまだましなのだ。

いや、何度かそういうことがあったのかもしれない。そのたびに逆恨みだと言われ、でも、自分ではどこが逆恨みなのか全く理解できず、そこから世間を怨み、世間一般に怒りの的をずらせ、攻撃の矛先を向けたのかもしれない。

そこに暴力を繰り出してきたのはどうしようもない誤りである。しかし、致命的なのは「世間」とか「一般」とか、そういう実体のない相手に向かって行ったことである。

彼らの恨みはどうしてそんなに拡散してしまうのか。どうして当の相手に集中できないのか。

逆恨みだと言われても仕方がない。逆恨みだって立派な恨みなのだ。でも、彼らはどうして会ったことも喋ったこともない人たちを恨めるのか。実体のない抽象的な集合体を仮想敵にしてしまうのか?

自分と同じように怒ったり悲しんだりする、実体のある相手にだけ向かって行けよ。そして、お互いに切れば血の出る実体同士で話をして、解決の道を探るしかないのである(たとえ決別だけが解決の方策であったとしてもだ)。

それでこそ人間の営みなのである。違うだろうか?

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