『ロスト・イン・トランスレーション』
【6月8日特記】 ハードディスク・レコーダーに録ったままになっていた『ロスト・イン・トランスレーション』を見た。
冒頭の新宿のネオンライト。僕にとっては観ているだけで心が安らぐ風景だ。
そこにやって来た往年のハリウッド・スター、ビル・マーレイ。そしてカメラマンの夫について来日したが、夫の仕事中はやることもない結婚2年目の若い妻、スカーレット・ヨハンソン。
確かにタイトルにあるようにビル・マーレイのCM撮影が通訳のいい加減さで混乱するというエピソードはある。しかし、もっと language problems や異文化の壁という点に焦点を絞った作品だと思っていたが、そうではなかった。
ほとんど映画の全編を通じてマーレイとヨハンソンの心の交流が描かれる。ともに結婚生活にぼんやりとした危機を感じている2人なのだが、しかしいつまでたっても男と女の関係にはならない。
何とも言えない不安感と高揚感。異文化空間に投げ込まれた浮遊感。──そういうものが凡そアメリカ的ではない手法で描かれている。いや、抽出されているという感じ。
僕は昔から親と同じ職業に就きたいと思う気持ちが理解できなくて、そのせいもあってか、ほとんど世襲のみで成り立っている歌舞伎など一部の例外を除いては、親と同じ職業についている人間(特に芸能関係)を無条件に無能だと決めつけてしまう悪癖がある。
ソフィア・コッポラについても、もう苗字を見ただけで全く作品を見る気がなくなってしまった。
しかし、この作品は妙に評判が高いのである。結局、これもよくあることなのだが、「あ、親と同じ映画監督という職に就いて入るけれど、こいつは無能じゃなかったんだ!」とこれまたいろんな分野で何度も経験したことをもう一度経験したのである(そのくせ、また別の「2代目」に遭遇したら、そいつは無能だと決めつけている)。
マーレイとヨハンソンが良い。この曖昧な感じ。語りはするけど進みはしない台本。そして、こんなことを映画にしようとした発想がなお凄い。
これは従来よくあった西洋から見た東洋みたいな映画では決してない。日本に投げ込まれたアメリカ人から新たな何かが立ちのぼってくる様を描いてはいるが、そこにあるのは日本でもアメリカでもない、そういうボーダーをとっぱらった人間そのものなのだと思う。
そして、もうひとつ言うなら、これは決して日本を舞台にした映画でも日本を描いた作品でもない。これは東京を舞台にして東京を描いた映像作品なのである。日本の他の土地ではなく、東京でしかありえない話であるという気がする。
東京って本当にそういう特殊性を孕んだ街なのである。他の街には決して真似ができない。
繰り返して書くけれど、僕は新宿や渋谷の夜の光景を観ているだけで心が安らぐ。そして、そんな風景の上に重ね刷りされたこの映画は同時に安らぎと揺らぎをもたらす存在だった。
けだし名画。
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