『テレビ進化論』境真良(書評)
【6月9日特記】 テレビ局に勤める者の目から見ると、ここに書いてあることを全面的に肯定するわけには行かない。補足したいこと、訂正しなければならないこと、そして反論を試みずにいられない点がいくつかある。
ただし、どれも細部についてのことであって、大筋としては非常に共感を覚える。全体を俯瞰する視座で書かれているし、それに加えて整理の仕方が大変巧い。
世の中の多くの人は、世の中の多くの事象に関して、その中から一番大きな要素だけを抜き出して単純化することが分析であり、それが問題の解決に繋がると思っている。しかしそれは、実は最大の要素にこだわり過ぎて、切ってはならない多くの要素を切り落としているに過ぎないのである。
本当の分析とは対象を要素に分解し、それぞれの要素ごとに見極めて再定義した上で再構築し、複雑なものを複雑なまま、全体を全体として捉えることである。そして、この本ではまさにそういうことができている。
今、放送と通信の世界で起きている事柄を扱うに当たって、対象を切り取って行く角度が本当に見事で、それを説明するためのキーワードの選び方が極めて適切である。著者によるキーワードを少し並べてみよう。
「コンテンツ、メディア、キャラクター」「制作の三段階」「流通力の覇権と創造力の覇権」「デジタル二重革命」「インディーズとメジャーの愛憎」「次のテレビ、テレビの次」「ブックマークという編成表」「テレビを飛び越えるコンテンツ」「情報の三角貿易」──これらの用語がいちいち新鮮で、性格付けが面白い。
官僚時代から長年にわたって培ってきた観察力を基に、彼オリジナルの解釈と、メディアミックス、ロングテール、Web2.0などの既存の概念を組み合わせて、放送通信業界の現状と問題点を読み解いた本としてはかなりレベルの高いものに仕上がっていると思う。
さて、著者の言う「ギョーカイ」に一応私も所属している(しかもまさにこの分野の仕事に携わっている)わけだが、確かにギョーカイの中ではこの本に書いてあることを素直に認められない人間がまだたくさんいるとは思う。ただ、僕の周りにはこの本を正当に評価している人間もまた少なくない。
それを考えると(一般の読者には全く関係のない話だが)ギョーカイもまだまだ捨てたもんじゃなくて、これから変わって行ける、生き残って行けるのかな、という気もしてくる。
どちらかと言うとギョーカイの中もしくは周辺の人間向きで、全くの素人が読んでこの面白さがどこまで解るのかな、という気もする。そういう意味では一般人には少しもったいない本かもしれない。
でも、書いてあることは非常に正しいことだと全面的に認めるギョーカイ人(の端くれ)がいるくらいの本であると思ってもらって良い。ま、認めないギョーカイ人(の端くれ)もいるけどね。
そういう2つのタイプのギョーカイ人が争っているのが今のギョーカイの地図なのである。
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