『芝生の復讐』リチャード・ブローディガン(書評)
【6月19日特記】 僕がリチャード・ブローディガンを知ったのはほんの1年半ほど前、柴田元幸の『翻訳教室』という本の中でのことだった。
ご存じのない方のために書くと、この本は柴田元幸教授の東大での翻訳演習の模様を収めた本で、柴田教授と学生たちが課題文(多くは短編小説)ごとに独自の翻訳を仕上げて行くまでのやりとりが収められている。
そして、この本の読者は1)原文、2)演習で柴田と学生が仕上げた翻訳、3)すでに発売されているその作品の翻訳、4)改めての柴田訳、の4通りで1つの作品を読み比べることになる。僕はそんな形でブローディガンの『太平洋のラジオ火事のこと』(Pacific Radio Fire)を読んだのである。
それは明快に分析できるような小説ではなかった。しかし、言いようもなく心惹かれる作品だった。
それで僕は本屋に行ってこの作品が収められている短編集を探したが見つけられず、とりあえず同じ著者による『アメリカの鱒釣り』を買ったのである。しかし、それは「アメリカの鱒釣り」が生きた存在(人間の名前なのか何なのかよく解らない)であったりして、かなりぶっ飛んだ短編集であった。
それに比べて『太平洋のラジオ火事のこと』はあまりあからさまな暗喩ではなく、燃えるのはラジオというちゃんと実体を伴った物体である。しかし、その実体が燃え上がるうちにラジオから流れていたヒット・チャート1位の曲が13位に落ちたりするという不思議がある。
けれど、それは訳の分からない文章なのではなくて、言うなれば一片の「詩」なのである。
その『太平洋のラジオ火事のこと』を収めた短編集がこの『芝生の復讐』である。全体的なトーンは『太平洋のラジオ火事のこと』とほぼ同じであり、『アメリカの鱒釣り』よりはるかにとっつきやすく解りやすい上に、1篇1篇が全て「詩」になっている、と僕は思う。
ここに、名訳と言われる藤本和子の凄みがある。英語で詩になっているものをそのまま日本語に訳すと普通は詩にならないはずだ。日本語で読んでも詩になっているところが藤本和子の奇跡的な翻訳なのであり、そのことを岸本佐知子があとがきに「私は藤本和子がいなかったアメリカの読者を、気の毒に思う」とまで書いている。この感じ、非常によく解る。
鹿狩りに行って雨の茂みの中をひとりで歩きまわり、周囲には誰もいない、自分独りだと思っていたのに突然目の前にボロ家が現れて、そこから子供が4人出てきた幻滅──それを捉えて、この16歳の主人公はこう言うのである──「これが人生だ」(『オレゴン小史』)。
この感覚の凄さが、言葉の鋭さが、そして「詩」が、あなたには解るだろうか?
藤本和子の訳が如何に名訳であるかということは充分承知した上で僕はこう書きたい──やっぱりできることならば原文で味わいたい小説である、と。
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