映画『山のあなた』
【5月24日特記】 映画『山のあなた 徳市の恋』を観てきた。70年前の清水宏監督作品『按摩と女』の"リメイク"ではなく"カバー"なのだそうである。台本/台詞がほとんどそのまま使われているのに留まらず、カメラのカット割まで再現したらしい。
監督はキャストやスタッフに原作映画を何度も見て脳裏に焼き付けるように指示したと言うから、非常に念の入った"カバー"である(ただひとり堤真一だけは「僕は見ないでやる」と宣言してその通りにしたらしい。そのこと自体は監督も歓迎したようだ)。
だから、草彅剛や加瀬亮が演じているにも拘らず、今年や去年撮られた映画とは全く思えない。見て何よりも驚くのは、日本人の会話の様式はこの70年の間にこれほどまでに変わってしまったのか、という点である。
清水宏という監督を僕は全く知らなかった。清水と同年生まれであり友人関係にもあったという小津安二郎の名前はさすがに知っていたが・・・。清水はその小津の『大学は出たけれど』などの原作を書いた人物であり、加山雄三の若大将シリーズの原型となったと言われている『大学の若旦那』という監督作品をヒットさせた人だそうな。
そして、その清水を敬愛し、その映画をカバーして復活させようと試みたのが石井克人である。
『茶の味』、『ナイスの森』、『山のあなた』──この3本を同じ監督が撮ったって信じられるか?
『鮫肌男と桃尻娘』と『PARTY7』は、確か途中まで見てやめたと思う。ちょっとしんどい映画だった。
それが『茶の味』で、「あっ、ここまで脱線して遊びながら、こんなにもしっとりとした、こんな素敵な映画が撮れる人だったのか」と一気に心服してしまった。
ところが『ナイスの森』では少し元のスラップスティックと言うかナンセンスと言うかの世界に戻ってしまい、結局のところ『茶の味』が最右翼であるとしたら『ナイスの森』が最左翼で(ま、あくまで喩えなのでどっちが右でも左でも良いのだが)、その幅の中にいる監督だと僕は思ったのだが、実はそうではなかった。
『茶の味』は中間地点でしかなかったのである。最右翼はこの『山のあなた』だった。
しかし、それにしても、よくこんなものを映画化しようと思ったものだ。"按摩さん"の話だぜ。座頭市みたいに仕込杖持ってるわけじゃなし。ただの盲目の按摩さん(そして、今は少しくらい広がったかもしれないが、この当時は盲人の職としては按摩さんくらいしかなかったはずだ)。
その按摩さんが事件を解決するでもなし、燃えるような禁断の恋があるわけでもなし、激しい差別と闘って成り上がる物語でもないし、サスペンスもスペクタクルもない──今の映画作りの発想ではありえない類のストーリーだ。
70年前にこれを作った人も偉いと思うが、70年前ならまだ時代が受け入れてくれたはず。これを現代に復活させようなんて途方もない発想をしたものだと恐れ入った。しかも、フジテレビが出資してるんだぜ、こういう映画に。これからの邦画界もなかなか捨てたもんじゃないのかもしれない。
「抒情」という言葉はよく履き違えられて、人が泣いたり喚いたりしているところ(あるいはそこに至る過程)を描けば良いように思っているクリエーターがいるが、そういうところに心血を注いでも決して抒情の境地には至らないのである。人がきっちりと描かれて、人の動きをしっかりと追うことができてさえいれば、川の飛び石にも橋の欄干にも滝の飛沫の中にも情は宿るのである。
遠景と近景が非常にきれいに溶け込んだ映画だった(ただし、ところどころ合成であることが丸わかりになるのがちょっと興醒め)。
見終わって俄かに不安になる。こういう映画って、今の若い子たちは理解するんだろうか? なんだか分からないけど、この深い感慨は何なんだろうって感じてくれるんだろうか?
映画ってストーリーを追えば良いものではない。仕掛けがあれば良いものでもない。映画ってなんだか分からない底なし沼だって解ってくれるんだろうか?
ごめん、この程度しか書けない。若い人たちに実際に見て感じてほしい。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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