映画『丘を越えて』
【5月18日特記】 映画『丘を越えて』を観てきた。高橋伴明監督、今野勉脚本。
この2人の名前を見て僕の脳裏に浮かんだ言葉は「大御所」でも「往年の」でもなく、「昔の人」。別に「昔」が悪いわけでもなく、「昔の人」が貶し言葉ということでもない。1949年生まれの高橋伴明、1936年生まれの今野勉に1946年生まれの猪瀬直樹(原作)を加えれば3人の昔の人が寄って、一体何をやろうとしているのか?
高橋伴明の映画を見るのは『TATOO(刺青)あり』以来なんと26年ぶり。今野勉の作品はTVではいくつか見たことがあるが映画では初めて。猪瀬直樹の本は読んだことがない。が、この原作はちょっと気になっていた。
菊池寛を中心とした物語。特別波乱に満ちた人生を送った人物ではないし、また彼の人生の波風が高かった日々にスポットを当てた物語でもない。そんなもん、今どき取り上げて何が面白いのだろう? なんでこれを映画化しようと思ったんだろうか?
──というところなのだが、出だしからしてふかしいも屋と納豆売りで始める辺りが粋な入り方である。客の目を逸らせない。そしていつしか最後まで見終わって、なんとも不思議に印象の深い作品に仕上がっていて脱帽であった。
さて、その菊池寛には西田敏行。何をやっても同じになってしまう役者、何をやってもわざとらしい役者。
菊池の私設秘書に雇われた女性・細川葉子役には、西田とは対照的に融通無碍で、どんな容れ物にもするりと入り込んでその実体になってしまう天才女優・池脇千鶴。池脇が本当に良い。パタン演技の西田と組んでも変幻自在にリードして行くのでいつもほど西田の嫌味が出ない。とても良いコンビだ。
新しい時代を生きる新しい女。江戸の香りを残すモダンガール。凛として、嬌として。たおやかで、かつ強く、時としてしどけない色香も匂う。
あんな時代に女性がこれほど自由にいられたんだろうか、とか、あの時代に朝鮮人に対してこんなに虚心坦懐になれる人物がいたのだろうか、とか疑問に思う点も少なくない。パンフを読むと渡辺祥子氏が同じようなことを指摘しながら「と思いつつも、あの時代にあった差別はちゃんと伝えよう、としている気持は買いたい」と書いていて、なるほどそういう見方があるのかと感心してしまった。
で、その葉子の母役に、これまた融通無碍の女優である余貴美子、文芸春秋社の社員で、社長の菊池寛と葉子を奪い合う朝鮮人貴族の男・馬にこれまた西田とは対照的に自然な演技の西島秀俊、そして文芸春秋の幹部社員役にこれまた意外に器用な嶋田久作(あれだけ強烈だった『帝都物語』の魔人・加藤保憲のイメージを引きずっていない!)と、名優が西田の周りを十重二十重に囲んでいる。
そしてカメラを据えて、止まったフレームの中で役者に結構長い芝居をさせる。何のけれん味もない構図。長い台詞のやり取りの後、役者がおもむろに動き始めるとカメラもゆっくりと後を追う。かと思えば、なんとも言えないシャープな角度で切り取ったカメラワークがある。
「嘘を築地の御門跡」などの「地口」が頻繁に登場して土地と時代の情緒を見事に伝えている。
そう、遠い昔の東京の、どうでも良い痴話のようでありながら、どこかしら現代に通じる、現代を考えさせる映画に仕上がっているのは何故だ?
これが脚本の力、演出の力なんだろうか?
──よく分からないのである。でも、すごく雰囲気のある、そして趣きの深い、心の奥に響いてくる映画であった。
今回僕が観た映画館では観客はわずか6人だったが、どう考えてもそれでは勿体ない映画である。
最後の学芸会みたいなぎこちないミュージカル仕立ても、これはこれですっごくOK。非常に良いセンスだと思う。
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