『ペット・サウンズ』ジム・フジーリ(書評)
【4月30日特記】 村上春樹訳というのに釣られてこの本を選んだのは大失敗だった。と言うのも、僕はこれがビーチ・ボーイズの音楽に材を採った小説だと早とちりしたのである(なにしろ作者のフジーリは音楽評論家であると同時に小説家でもあるのだから)。
ところがこれはバリバリのドキュメンタリであり音楽書であった。
もちろん小説であれ音楽書であれ、面白ければそれはどちらでも良いことであり、事実この入魂のドキュメンタリは非常に読み応えのあるものであったのも確かなのだが、ひとつの大きな問題として、僕があまりにビーチ・ボーイズを、ブライアン・ウィルソンを知らなすぎるということがある。
ほぼビートルズと同時期に活躍したこのバンドは、僕らよりひとつ上の世代のものである。そして、僕らはビートルズは遡って聴いたけれど、ビーチ・ボーイズについてはほとんどそういうこともなかったのである。
だから、この本で並び称されているビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』と聞けば俄かに、「ああ、あの曲とこの曲と」といろんな音が脳内に甦るのであるが、『ペット・サウンズ』と言われても正直言ってそのタイトルさえ知らなかったし、多分通して聴くと聞いたことのある曲も何曲かあるのかもしれないが、全く確信がない。
フジーリによるビーチ・ボーイズについての、とりわけリーダーであるブライアンとその作品についてのこのドキュメンタリは、時代背景とブライアンの生い立ちと精神状態、そして曲の構成に対する詳細かつ具体的な分析が一体となって非常に見事な構成の文章となっている。
しかし、それだけに、ビーチ・ボーイズの曲をほとんど知らない僕らの世代が読むには、「オルガンのソロがあり、明るくのびのびとした十二弦ギターが入る」とか「コーラスはBメジャーのキーからDメジャーへと移り」などという詳しすぎる分析がなんとももったいないのである。
でも、逆にそれだけに、このフジーリという作者を、同時代の多くの若者を、あるいは村上春樹という訳者をこんなにも夢中にさせ、こんなにも思い入れたっぷりに語らせるこのアルバムって一体何なんだろう、という興味が沸々とわいてきて、終盤まで読み至っても去りがたい感じがするのである。
作者は彼がこの『ペット・サウンズ』というアルバムに出会った体験を普遍化してこう書いている。
そしてそのようなことが起こるたびに、あなたの人生は角をひとつ曲がることになる。ある芸術作品があなたの一部と化したとき、それ以前とは世界の様相が一変してしまうのだ。(p168)
僕はこのフジーリの生き生きとした表現によって『ペット・サウンズ』を疑似的に追体験し、角を曲がるところまではとてもじゃないがたどり着いていないが、角が見えるところまで歩いてきてしまったような気がする。
そして村上春樹は彼の訳者あとがきをこういう文章で締めくくっている。
しかしもしもあなたが『ペット・サウンズ』をまったく聴いたことがないか、あるいはざっと聴き流す程度の聴き方しかしてないと仮定すれば、おそらくあなたは本書を読み終えたとき、「この筆者がこんなにも強く心を惹かれる『ペット・サウンズ』というアルバムは、いったいどういう内容のものなのだろう?」と興味を持たれるのではないだろうか。そして実際にアルバムを聴いてみよう(あるいはもう一度しっかり聴き直してみよう)という気持ちを抱かれるのではないだろうか。(pp186-187)
僕は著者と訳者の思う壺である。僕は『ペット・サウンズ』を聴いてみるだろう。そして、もしかしたらその音源を手許に置き、何度も何度も聴き返してみるかもしれない。
【2014年1月5日追記】 書評を整理してブログに移す作業をしながらこの原稿を読み直してみて、僕はいささか驚いている。
ここに書いている通り、この後すぐに僕は『ペット・サウンズ』を買った。そして、何回か聴いてみた。
今ではすっかり、随分昔から知っているグループの随分昔から知っているアルバムのような気になっているのに、実はこの本を読むまで、僕はビーチ・ボーイズのことをほとんど知らなかったらしいのである(笑)
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