映画『奈緒子』
【3月9日特記】 映画『奈緒子』を観てきた。スポ根・青春ドラマ。古厩智之監督でなかったら、まず観ようとは思わなかっただろう。
予告編では雄介(三浦春馬)だけではなく奈緒子(上野樹里)の走るシーンもあったのでてっきり奈緒子も陸上部員かと思ったら、そうではなくてマネージャだった。小学生の時、船から海に落ちた奈緒子を助けようとして死んでしまったのが雄介の父親だったという設定(そこからどうして部員とマネージャという関係になったかは、まあ、映画を見てくれ)。
冒頭、小学生の奈緒子の一家が乗っている漁船から対岸を見ると、小学生の雄介が一心不乱に走っている。船上のカメラが対岸を走る少年を、並走しながら切り取る。──これがなんとも言えなく良い画なのである。巧いなあ、と唸ってしまった(ちなみに撮影は『サイドカーに犬』の猪本雅三である)。とても映画的なシーンだ。他に形容のしようがない。
そして、ふと思う。僕はいつも映画的なシーンを求めて映画を観に行くのだ。
例えば、ゴミ捨て場での長廻し:
両手一杯にゴミを持って奈緒子が現れる。順番にゴミ袋を捨て、あるいは投げ込み、それから所在なさげに初めて来た陸上部監督(笑福亭鶴瓶)の家の周りを観察しながらうろうろ。カメラは少し離れた位置からゆっくりと奈緒子を追う。
そこに、奈緒子を呼びにきた雄介が後姿でフレームイン。奈緒子に呼びかける。奈緒子が遠目から頷く。やがてカメラは動き出した雄介を追い、奈緒子は一旦フレームから消える。そして家に向かって歩き始めた雄介の横に奈緒子が左からフレームイン。
こういう見事にデザインされたカメラワークを見ていると、溜息が出る。とても美しくて含蓄に富んだシーンだ。
スポーツを描いた最近の映画ではどうもCGに頼ることが多いように思うが、この映画はそういう小細工を弄することなく徹底的に役者に走らせている。事前にかなり訓練を積んだのだろう。筋肉の躍動感、移動する肉体の疾走感がしっかりとフィルムに焼きつけられている。立派なもんだ。
走っている人間をカメラに収めるとき、真横からコースと平行に撮るか、正面または背後からコースと直交して撮るかの2つの選択がある(もちろん両者の中間として斜めから撮るという方法もあるが)。
カメラマンはランナーの横顔を撮りたいか正面からの顔(あるいは後姿)を撮りたいかによって構図を選ぶことになるが、決してそれだけではない。
真横から撮ると焦点は走っている人間に当たるが、コースと直交して撮った場合、焦点はコースに移る、つまり、ここまで走ってきた遥かな道のりや、あるいはここからまだまだ続く道のり、あるいはその先にあるゴールなどに見ている者の意識が向けられるのである。
駅伝のシーンでは当然これらを上手く使い分けて組合せているのだが、駅伝本番以外のところで、要所要所に出てくるこの奥行きの出る「直交アングル」が素晴らしいと思った。
- 最初は、奈緒子と雄介が給水ポイントで再会するシーン。
- 次に、練習中に監督の指導に怒った雄介がコースを離脱して行くシーン。
- そして、膵臓の痛みから停車した監督の車を降りて、奈緒子が雄介のスタート地点を目指すところ。
上野樹里って、『スウィングガールズ』で初めて見た(デビューの『ジョゼと虎と魚たち』は順序が逆になってその後に観た)時に、「すっごいはまり役ではあったけど、この女優、すぐに消えちゃうだろうな」と確信したのだが、なんのなんの、それ以降も主演クラスの出演作品が目白押しである。
こうやって見ていると、確かに"何か"があるんだよね、この女優。
古厩監督の演出は、台詞と台詞の間にたっぷりと間を取って、その間に俳優の表情をじっくりと見せてくれる。そして、その瞬間に上野樹里も、三浦春馬も、柄本時生も、タモト晴嵐も、それぞれの役者が信じられないほど良い表情をするんだよね。
これが演出力によるのか演技力によるのか、なんてことは考えても仕方がない。それらは切り分けられるものではないのだ。ただひとつだけ言えることは、映画もまた団体競技であるということである。このチームがこのプレイを産み出したということでしかないのである。
泣いたか泣かなかったかなんてことは映画の良し悪しとは全く関係のない話ではあるが、僕はこの映画で2回泣いてしまった:
給水ポイントで奈緒子が雄介に水を渡そうとするシーンと、高校駅伝のゴールのシーン。
こういうスポーツ根性・青春ドラマではこれ以外に決着のつけようがないだろうというくらいベタな終わり方なのだが、それが茶番に終わるか胸の奥深いところまで入ってくるか、それはやはり作っているチームが映像というものの魔力をどこまで理解しているかによると思う。
例えば前述のゴミ捨て場のシーンなんて、映画のストーリーには何の必要もないシーンである。後に意味を持ってくる台詞が語られる訳でもないし、そもそも台詞自体がほとんどない。にも拘わらず、このシーンを入れ込んだ。そして、このシーンのなんと饒舌なこと!
パンフの中で古厩監督は、このシーンに触れてこう言っている。
言葉にならない感情を描きたいから映画をやっているわけで、心の中でこういうことを考えてますっていうことを描くんだったら小説をやればいい。そういう想いもあって、あのシーンは入れたんです。
映画は第一義的に映像作品なのである。拾いものの秀作だった。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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