『サウスバウンド』奥田英朗(書評)
【2月15日特記】 僕は滅多にやらないことなのだが、先に映画を観てから原作を読んでみた。
先に映像を見てしまうとそっちのほうが情報量が豊富なのでどうしてもイメージが固定化してしまい、今さら文字情報だけから想像を膨らませようとしても見事に妨げられることになる。だから普段は先に映画を見たら原作には手を出さないことにしているのだ。
ただ、今回は映画があまり面白かったので、久しぶりにこの「逆コース」を辿ってみた。時々そういう気になることがある。
そして、映画を先に観てしまっているにもかかわらず、かなり楽しんで読めた。もっとも僕の頭の中で上原一郎は完璧に豊川悦司でさくらは終始天海祐希だ。それだけは仕方がないのだが(笑)
知っている筋をもう一度読んで面白いのは、それはひとえに作家の筆致によるものだ。文字だけでちゃんと想像を掻き立て、空想を膨らませ、頭の中にかなり明確なイメージを構築してくれる。
さらりと描いて進むところ、言葉を重ねて深めるところ、そういうメリハリも充分で、爽やかで、かつ、かなり感慨深い作品になっている。
恐らく映画を見ていなくても同じ感想を抱いただろう。いや、文字だけで進めているのに、映像に負けないぐらいの刺激を与えてくれる。映画では端折ってしまって若干分かりにくかった部分もこの原作を読んですっきりした。よく考えられた設定であり、筋であり、しっかりと人物が立っている。これは近来まれに見る面白い読み物である。
何よりも人物造形の妙である。元・活動家で、権力が大嫌いで、ろくに働きもせず、屁理屈ばかりこねているへそ曲がりの大男・上原一郎とその愛すべき家族たち──その一人ひとりが如何にもありそうで、なんとも憎めないキャラなのである。
唯一の難点は、どう考えても時代設定が合わないこと。奥田英朗は僕と同年代である。奥田が描いた主人公の上原一郎は、長女・洋子が21歳、ストーリーの語り手である長男・二郎が6年生、次女の桃子が4年生となると僕や奥田と同年代もしくはもう少し下の世代である。
しかるに、僕が大学に入ったころには学生運動の火はもうほとんど消えかけていた。その時代に上原一郎と後の妻・さくらが数多くのエピソードを持つ学生運動の闘士であったという設定には少し無理があると言わざるを得ない。
個人の資質の問題ではない。僕らの時代にはもう学生運動自体が成立しなくなっていたのである。
でも、その時代にあえてこういう人物を設定したからこそ光り輝いて見えるとも言えるのであって、おそらくこれは奥田の確信犯だろう。ただ、僕ら以上の年代の人間には少し気になるのではないかな?
でも、難点はそれだけ。前半の東京から後半の沖縄への場面転換も鮮やかだし、大人の世界と子供の世界との対照もまことに見事である。
そして、読み終えて改めて思ったのは、あの映画が如何にコンパクトにまとめられていたかということだった。
奥田英朗もあっぱれ、そして、森田芳光もあっぱれ。小説と映画がこれほど幸せな結婚をしたケースはないのではないだろうか? ちょうど一郎とさくらみたいに。
これは珍しく小説が先でも映画が先でも一様に楽しめる見事な素材である。どっちからでもどうぞ。
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