映画『陰日向に咲く』1
【1月26日特記】 映画『陰日向に咲く』を観てきた。今年最初の映画。
他のところにも何度か書いたと思うのだが、僕は劇団ひとりという役者を大変高く評価している。ただ、それはあくまで役者としての劇団ひとりであり、この原作小説が発表された時には全く読もうという気にならなかった。
たまたま会社の上司が読んで、「おい、やまえー、これ何や? さっぱり解らんぞ。一回読んで分析してみてくれ」と僕に本を手渡してくれたのだが、僕は本は買って読む主義だし、その当時買ったまま読んでいない本が溜まっていたこともあって、その本は読まずに突き返してしまった。
というくらいなので、これは原作に魅かれて観た映画ではない。では、何か?
ギャンブル狂で借金まみれのバスの運転手に岡田准一、30年前の母の初恋の人(であり、かつ母と漫才コンビを組んでいた相方)を探す娘に宮﨑あおい、休暇を取って新宿西口公園のホームレスになるエリート・サラリーマンに三浦友和──というキャストに魅かれたからに他ならない。(宮崎あおい)
他にも三浦が憧れるホームレス"モーゼ"に(好きな役者ではないが)西田敏行、B級アイドルの追っかけをやっているネットカフェ店長に塚本高史、そのがけっぷちのB級アイドルに平山あや、岡田に思いを寄せるバスガイドに平岩紙──と多士済々である(脇役では特にこの2人=平山と平岩が良かった)。
回想シーンでは宮﨑あおいの母役に宮﨑あおい(二役)、その初恋の人で漫才の相方に伊藤淳史、2人が出演している浅草のストリップ劇場の花形ダンサーに緒川たまき、劇場の支配人に本田博太郎が扮している。
で、これだけ人物が登場して、いくつかのシーンが関係なく進行すると、あとはこれらがどう繋がって行くのかがストーリー上の大きなポイントになる。
繋げるために偶然とか「実は・・・」とかいう"糊"が必要になってくる訳だが、いろんな人物や要素をこの"糊"でむやみにくっつけすぎると、必然的に物語は安っぽく興醒めになってしまう。
観ていると最初は関係なかった登場人物が次々と繋がりを見せてくる。あまりに予測した通りの展開になって「おいおい」と思うこともいくつかあったが、予想外の繋がり方をして不覚にも目頭が熱くなったシーンもあった。
しかし、いずれにしても、この映画は残念なことにやたらといろんな人が繋がりすぎて、さすがに興醒めだと言うしかないようなことになってしまう。どうやら原作ではここまで繋がってはいなかったと言うから、これは脚本家の責任だ。
だが、この金子ありさの脚本がまずいかと言えば全然そんなことはなくて非常によく書けているのである。台詞回しも非常に説得力があるし、黄色とか台風とか傘とかオリジナルのアイデアがよく効いている。
最後のほうのシーンで、もうあまりにいろんな登場人物が繋がってこれ以上繫がりようがないないだろうという場面で宮﨑あおいが「これには意味がある」というのを聞いていると、なんだか確かにこれだけ繋がってきたことに意味があるように思えてくるから不思議だ。
いや、これは決して脚本家の強引な筋運びなのではなくて、宮﨑あおいの台詞も別に人物が繋がることを指して言ったのではなくて僕が勝手にそう感じたにすぎない。
なんか、愛のある話なのである。だから棄て切れない──そんな感じのする映画だった。
僕は映画を見てから原作を読むことはめったにしないのだが、非常にエピソードの配置が上手い原作だと聞いて、なんか読んでみたくなった。
原作・映画ともに、なんか、人間という不安定な存在にちゃんと根ざした作品であるような気がするのである。
もちろん岡田准一、宮﨑あおい、三浦友和の好演もある。本当に2度と見ることはできないのではないかという見事な表情がいくつもあった。
わざとらしい繋がり方をしているにもかかわらず、見ている途中でそれを予測させないからくりが仕掛けてある。このあたり非常にずるいと思うのだが、完全にネタばれの話なので別記事を立てることにする。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
« 葬儀に | Main | 映画『陰日向に咲く』2 »
Comments