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Tuesday, December 18, 2007

敵意は適宜

【12月18日特記】 これは言わば人生観に関わることなので「それは違う」と言う人もいるだろうけれど、僕は敵意というものは適宜見せておく必要があるのではないかと思っている。もちろんそんなもの見せないに越したことはないと言えばないのだが、長い人生の中では敵意を露わにしなけりゃならんポイントがいくつか訪れるものではないだろうか。

問題は敵意を覚えるかどうかではない。

話は逸れるが、僕がまだ若かったときに営業局の先輩に「おいっ、やまえー、怒れ! なんでお前はあんな言い方されて怒らへんのや!」と怒られたことがあるのだが、まあ過剰に怒りを覚えるのも困ったもんだし、その逆も困ったもんである(考えてみれば、その怒った人が今我が社の社長になっている)。

ただまあ、その辺り、つまり何に対して怒って何に対して敵意を覚えるかについては(限度はあるにせよ)人それぞれの自然体で良いのではないかと思う。

問題は敵意を覚えるかどうかではなくて、それを顕すかどうかなのである。

で、人生、時として、あるいは仕事を進めて行く中では場合によって、しっかりと怒りなり敵意なりを相手に伝えておいたほうが良い局面があると僕は思っているのである。だから、敵意は適宜見せておく必要があると書いた。デモンストレーションの必要性である。

そして、ここで問題となるのは「敵意」ではなく「適宜」のほうである。この「適宜」のさじ加減がかなり難しい。あまりに見せすぎると敬遠されたり不要な恨みを買ったりするし、あまりに見せずにいると舐められる。

見せずに済むならそれで良い。家族や友だちであれば見せずに済む間柄も多いだろう。だが、長い人生広い世間、ここは威力に訴えてでも我を通すべきポイントがある。それを見極める眼があるかどうかが問われているのである。

そして敵意を露わにするということは、自分がここは相手を叩きのめしてでも突き進むべきポイントであると思っているという意思表示なのである。敵対しても譲らんぞという宣言なのである。

とかくこの世は難しい。一番難しいのはどのくらいが「適宜」かという判断である。

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