『村上春樹にご用心』内田樹(書評)
【11月6日特記】 内田樹による村上春樹論──「来たっ!」という感じだった、この本は。
僕は内田樹の本については『ためらいの倫理学』と『下流志向』の僅かに2冊を読んだのみである。でも内田樹ファンを自認するにはそれで充分だと思う。
そして村上春樹の作品は、デビュー以来少なくとも長編は全部読んでいる。いや、それどころか、自分のHPには書いたのだが(長くなるのでここでは書かないが)冗談半分で村上春樹を人生最大のライバルと呼んでいるくらいである。
だから、この組合せには本当に「来たっ!」という感じがあった。内田樹もまた僕と同じ村上ファンだとは全く知らなかったのである。
そして、この本を読むまで僕がもう一つ知らなかったのは、日本の文芸評論家がそれほどまでに村上春樹を毛嫌いし、酷評し、黙殺していたということである。ふーん、そんなだったのか、とちょっと驚いてしまった。
この本はまずそんな評論家たちに対する村上春樹ファンのサイドからの逆襲のように読めるし、内田の斬れる分析を目の当たりにして溜飲を下げる人もいるのかもしれないが、だからと言って、この本は内田が正しい反論をしているから良書なのではない。
内田の書いていることが面白いから良書なのであって、その点をこそ何よりも評価するべきなのである。
そうでなければ村上春樹を酷評している評論家たちと同じ地平に堕ちてしまうことになるだろう。
内田がフランス現代思想から『冬のソナタ』に至るまで、持てる知識をフルに動員して繰り広げる村上論は真に面白い。スリリングなほどである。
そして、センチネルとか世界性とか服喪の儀礼とか死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配するとか邪悪なものが存在するとか、ポイントポイントで内田が持ち出すキーワードが適切と言うか、徹底的に深読みを許してしまう村上春樹という作家の特性にぴったり嵌っていて、いやいや如何にも面白い。溜息が出そうなほどである。
さて、こうやって読み比べてみると、わざわざ指摘するまでもないことだが、村上春樹と内田樹の間には大きな共通点がある。
それは面白いものが書けるということである。
この本で名の挙がった何人かの評論家はこれを読んで反論してくるのだろうか? しかし、面白いことが書けない評論家がどんなに頑張って反論しても、面白いことを書くことができる村上や内田には決して敵いっこないのである。
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