『アサッテの人』諏訪哲史(書評)
【11月10日特記】 芥川賞や直木賞受賞作はあまり読まない(もう少し作家として評価が固まってから読むことが多い)のだが、すこぶる評判が良いので読んでみることにした。
が、自分で読み始めてみるとなんだか「知」が勝ちすぎた小説のように思える。非常に観念的なところからスタートしていて、その分、頭にすんなり入ってこないで少しぎくしゃくしてしまう。
もっとも違和感が特に強いのは冒頭の部分であって、読み進むにつれて、特に叔父の手記が出てきた辺りからはすいすい読めるところから考えると、そのぎくしゃくしたところもまさに作者の狙い通りなのだろうけれど、そうなるとやっぱり「知」が勝ちすぎた小説という最初の感想に戻ってくる。
日常の定型や凡庸から抜け出してアサッテ(ポンパ)に踏み出そうとして、それ以外に自分の生き方を考えられなくなり、結局苦悶のうちに出奔するしかなかった叔父の話なのだが、僕の場合には直近にリチャード・パワーズの『囚人のジレンマ』を読んでいたのが、巡り合わせとして最悪だった。
あの作品もジレンマを抱えた、言わば病んだ父親をめぐる話であるが、あの大著に比べるとどうしても見劣りしてしまうのである。
『囚人のジレンマ』の父の病気には世界や歴史や戦争や映画や、その他もろもろの社会的な要素が絡んでいた。もちろん社会が絡んでいたほうが偉いなどと言うつもりはないが、あの小説の凄味と比べると、この『アサッテの人』はいかにも独りよがりで矮小な感じがしてしまうのである。
そして、読み始めてすぐに容易に予想できたことだが、その予想に違うことなく、この小説は何ごとかの解決やカタルシスや大団円みたいなものがないまま終わる。これも意図した、ある種のアサッテである。
僕はたまたまこのアサッテ志向を他人とは思えないような気持で読み始め、共感し、興味を持ちつつ読み進むことができる人間だった。
でも、他の読者の皆さんも皆そうなのだろうか? 芥川賞を獲ったということは、賞の選考委員の皆さんはきっと楽しんで読めたのだろう。でも、一般の読者の大多数もそうなのだろうか?
そういう意味では少し疑問が残る作品だった。
でも、読み終わっていつまでもポンパだの、タポンテューだのが残っている。この余韻だけはやはり一流作家の証明なのかもしれない。
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