随想:サラリーマン川柳
【10月17日特記】 ウチの会社には入館証をもらって館内を回っている生命保険会社の外交員の人たちが何人がいるのだが、今年も第一生命保険のおばさんが恒例の「サラリーマン川柳コンクール」の応募用紙をみんなの机に置いて帰った。
僕は川柳に関しては全くの門外漢だが、結構好きで選考結果が発表されると毎年見ている。そして毎年首を傾げることになる。
僕が読んでいて上手くないなあと思うもののひとつが日経新聞の記事であり、もうひとつがこの「サラ川」ベスト10なのである。
それは発想の面白さだけで選考されていて、表現の巧みさがないがしろにされているからである。表現が稚拙でも発想さえ面白ければ優秀作品に選ばれてしまっているからである。それはちょっと日本語を舐めちゃいませんか?
発表された作品を読んでいると、僕はいちいち「ここの単語をこれに変えたらもっと小粋な感じがするのに」とか「こういう形に変えるともっとスピード感が出てオチの落差が際立つのに」とか「五七五の最初の五のところにオチを持ってきているので読み始めていきなりネタバレ感がある。構成を変えて最後の五にオチが付くようにすれば良いのに」などといろんなことを考えてしまう。
ひどい場合には「この言葉の使い方はおかしい」というものまである。そういうものが賞に選ばれてはいけないのである。
一体誰が審査員を務めているのかよく知らないが、本当なら発想が面白くて選ばれた作品をずらーっと並べておいて、「この川柳はこの表現をこう変えたら川柳としてもっと洗練される」みたいなことを誰かが教えるべきなのである。そしてそういうことができている作品だけがベスト10に選ばれるべきなのではないかと思う。
そうでないと日本語の表現は死んでしまうのである。文字にして発表する限り、いや、それに留まらず、それを審査して選ぶとなるとそれは紛れもなく「文学」である。文学であれば表現力が問われて当然である。
表現の巧拙を読み取る力を養って行かないと、日本人の表現力は衰退するばかりではないかと、僕はちょっと心配しているのである。
今年の応募作品に期待したいところだが、選考の構造が変わらない限りそれはないものねだりになるだろう。
Comments