映画『クワイエットルームにようこそ』2
【10月21日追記】 昨日の記事ではちょっと書き足りてなかったので少し書き足しておくことにする。
昨日僕が書いた「両義的(多義的)」云々の下りが多分、映画を見ていない人に解らないのは当然であるとして、映画を見た人にも釈然としないだろう。
例えばそれは、睡眠薬とビールを飲み過ぎて死にそうになってしまうに至る顛末について、明日香(内田有紀)が自分の記憶で振り返っている描写と、第一発見者である鉄雄(宮藤官九郎)の証言に基づくシーンでかなり異なる、と言ったようなことだ(例えば2つのシーンで薬の飲みカスの量が微妙に違ったりする)。
そして、この映画の場合、そういうようなことは他の登場人物についてもしょっちゅう起こっているのである。何せ設定が精神病院の患者たちだけに、そんなことは当たり前に起こるのであるが、これは精神病院の患者だからという印象を与えないのが巧みなところ。
そういう構造が、まず両義性/多義性の前段階である。
そして、この映画の中には結構たくさんの仕掛けが散りばめられている。それは何かの記号化であったり、隠喩であったり、筋の上でのどんでん返しであったり、ロジックのすり替えであったり、あるいは、騙し絵とかマトリョーシカとかそういった小道具が直接登場してきたりもしている。
問題は、そういう仕掛けの数々を改めて並べてみると、それらが一直線上に、あるいはきれいな曲線上に並ばないということだ。これはかなり周到に仕組まれているような気がする。
だから、その一つひとつの仕掛けについて作者である松尾スズキが込めた意味を読み取ろうとすると途端に破綻する。あれとこれとがうまく繋がらない。あっちでああだという比喩を持ちこんでおきながら、こっちではこうだと揶揄している。
だから、僕はすぐに仕掛けを解釈するのをやめた。
シーンや小道具をひとつずつ解釈しようとすると全体的な混乱が起こり、それこそ僕らはあの精神病院に送り込まれる羽目になるのである。
僕は思考停止することによってその難を逃れた。でも、それでは映画は面白くない。作者が仕掛けた罠に嵌らないことにはこの映画の面白さはきっと解らないだろう。
以上が僕が言いたかった両義性/多義性の全体像である。そして、僕は一旦それを括弧に入れて、そこから抜け出して映画を見た。それは別の意味で「知的に面白い」ものであった。
ただ、評価するのが難しくなった。それもまた映画である。
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