『きみのためのバラ』池澤夏樹(書評)
【9月20日特記】 随分久しぶりに池澤夏樹を読んだ。僕は短編は進んで読まないほうなので、本当なら次の長編小説が出るまで待つはずなのだけれど、なぜだかこの本には魅かれるものがあったのだろう。
あるいは僕の人生が、またそろそろ池澤夏樹を必要とする時期にさしかかったのかもしれない。
そして、久しぶりに読んでみると、やはり池澤夏樹は上手い。
小説の巧さというものを一口に語ろうとしても無理なことで、ならば一口に語ってしまうことは諦めて、その代りに一片だけ切り取って語るとすれば、それは余韻である。
余韻は小説においては小さくない要素で、特に短編においては中心的な要素と言って良いのかもしれない。この短編集にはどの作品にもたっぷりと余韻がある。
余韻が書けるのは人の世の喜びや悲しみを知っている者である。自分の喜びや悲しみなら誰でも知っているが、そこには余韻はない。
他人に触れて人の世の喜びや悲しみを知った者だけが余韻を紙の上に写すことができるのではないか、などと僕は思ったりするのである。
ここには8編の短編が並び、主人公は恐らくいずれも日本人なのだろうが、海外で生活していたり、海外で暮らした経験があったりする。そして、皆それぞれにうっすらとした悲しみを抱えていたりする。
それは決して特別な悲しみなどではなく、生きていればいろんな形で我々に触れてくる、ありきたりな悲しみであったりする。でも、それは自分と他人との間で不思議に共有できるものであったりして、だからこそそこに余韻が生まれる。
最後に収められている表題作では余韻と言うよりも尻切れトンボの感が強いかもしれない。
主人公は、恐らくフランスのどこかと思われる国に妻といて地下鉄に乗っている。そこから物語が始まって、やがて彼が独身時代に訪れたメキシコの旅への回想に変わる。そして、物語は不意にそのまま終わってしまう。冒頭の現在のフランスには戻ってこないのである。これはどちらかと言えば掟破りの手法ではないだろうか?
しかし、それも、作者が描きたいものが「帰ってこないもの」であるからこそ、仕方がないのではないかと思うのである。そして、決して帰ってこないものが心の中に留まったりする──それが余韻なのである。
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