ふたりでドアを閉めて
【8月8日特記】 朝日新聞読者の会員制サイトであるアスパラクラブが阿久悠作品の中で好きな曲のアンケートを取った。10,186人の回答の中から3,000票以上を集めてトップに選ばれたのは『また逢う日まで』(尾崎紀世彦、1971年)だった。
以下、『津軽海峡冬景色』(石川さゆり、1976年)、『宇宙戦艦ヤマト』(ささきいさお・ロイヤルナイツ、1974年)、『五番街のマリーへ』(ペドロ&カプリシャス、1973年)、『北の宿から』(都はるみ、1975年)と続いている。
50位までのリストを見たが、僕が選ぶなら第6位の『ジョニーへの伝言』(ペドロ&カプリシャス、1973年)か第12位の『勝手にしやがれ』(沢田研二、1977年)。この2曲が文句なしに卓越していると思う。
ま、ただ、どの曲もかなりヒットして印象に残っている曲で、そういう意味でやはり印象に残る作詞家だったんだなあとしみじみ思った。
第1位に選ばれた『また逢う日まで』の歌詞で、当時どうしても理解できない部分があった。大人になって理解できるようになったかと言えばそうでもなくて、いまだによく解らないのである。
それは、
ふたりでドアを閉めて ふたりで名前消して
の名前を消すという行為が何を指しているのか、である。
この歌の詞は、良い詞だとは思うのだが、阿久悠が冴える時のパタンである「極めて具体的な設定があって情景が見える」という要素に乏しいのである。彼はときどきこういう詞も書いていた。たとえば初期の代表作である『白いサンゴ礁』(ズーニーヴー)などがそうである(綺麗な海の画は浮かぶのだが、そこで誰がどんな経験をしたのかがちゃんと描かれていない)。
この『また逢う日まで』も、男女の別れの歌であるところまでははっきり見えているのだが、なにせ「別れのそのわけは話したくない」と言うくらいで、聴いている我々には何で別れたのかさえ判らない。
ただ、喧嘩して、罵り合って、片方がドアを蹴破って出て行ったりするのではなく、あくまで「ふたりでドアを閉め」るのである。最後だから一緒に閉めよう、という感じなのだろうか。
そして、「ふたりで名前消」すのである。これは何だろう?
当時中学生だった僕の脳裏に浮かんだ映像は、黒板に並べて書いた2人の名前を、2人で1つの黒板消しを持って消すシーン。ちょうど毎朝日直の名前を書き換えるように。──でも、この歌の場合はどう考えてもそういうイメージじゃないだろう。では何?
まず、ドアを閉めて、その後で名前を消すのである。ドアを閉めるほうが先だ。ということは名前は家の外に書いてある。すると、表札か?
でも、表札を外すのではなく、あくまで名前を消すのである。これが表札を外すのであれば、それまで同棲していた証を消してしまうという意味で理解するに難くないが、そうではない。表札はそのままで、表札に書いてある名前を消すのである。何で? 消しゴムか? いや、消しゴムじゃ消えないだろう。紙ヤスリか? ひょっとして修正液か?
あるいはもしかしたら、「お互いの心の中にある相手の名前を消す」みたいな抽象的な意味なんだろうか? しかし、そうなると「ドアを閉める」という極めて具体的な身体の運動に対する描写と対句にしているバランスの悪さが気になる。バランスどうこうよりも、そういう具体的な動きの描写の後に抽象的な表現が来ると俄かに理解できないのである。
うむ、結局さっぱり解らない。でも、解らないんだけれど、あるいは、解らないからこそかもしれないが、この「ふたりで名前消して」という表現が、その当時から現在に至るまでずっと僕の気になったままなのである。
そういう表現も一種の良い表現である。彼が亡くなった翌日にこのブログに書いた文章でも触れたが、阿久悠は決して「斬れる言葉」の使い手ではなかった。でも、ときどきこんな「気になる言葉」を残している。
それも表現の妙だと思う。まさに、その時心は何かを話すだろう。
なお、亡くなった翌日に書いた文章と、今日のこの文章は、このままブログに残しておくと完全に埋もれてしまうので、そのうちに追悼文としてまとめて1つにした上で、HPの音楽エッセイのコーナーにも置いておくつもりである。
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