映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』
【7月15日特記】 映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』を見てきた。
いきなり余談であるが、このタイトル中の「ども」は「共」であり、イコール「達」であり、つまり複数形を作るための接尾語である。
ところが僕はこれを逆接の接続助詞だと思っていて、そうなると「腑抜け」も名詞ではなく動詞「腑抜く」の已然形(現代語なら動詞「腑抜ける」の仮定形)であり、意味するところは「腑抜けてはいても、悲しみの愛を見せろ」だとばかり思っていた。
映画を見る前の週に漸く正しい意味を知ったのである。つまり、これは主人公の大勘違い女・澄伽(すみか、佐藤江梨子)が周りの人間たち(腑抜けども)に切った啖呵だったのである。
僕はその妹・清深(きよみ、佐津川愛美)に対して向けられた言葉で、「普段は姉に虐げられて言われるがままなされるがままに腑抜けみたいな生活を送っていても、漫画家としてペンを執ったら一変する。さあ、姉に対して悲しみの愛を見せてやるんだ!」という意味かと思っていた。
解釈によってこんなにも意味が違って来るわけだ。
さて、これは佐藤江梨子が扮する傍若無人のバカ女・澄伽の話である。才能もないのに根拠のない自惚れからいつか女優になる日を夢見ている。僕がこのブログの7月7日の記事で「若者に対してむやみに『夢を諦めないで』と言わないほうが良い」と書いたのは、まさにこういう人物を想定してのことである。
でも、この澄伽に対してどういう感情を抱くかは観客によって相当な隔たりが出てくるのではないかなと思う。
一見無茶苦茶なように見えて、でも不思議に共感を覚えてしまうという人もいれば、共感を抱くようなことはないが、嫌悪感を覚えながらもその強烈な個性にどことなく魅かれてしまうという人もいるだろう。僕の場合はそのどちらでもなく、ただ撲殺してやりたいと思うだけだ。
にも拘わらず、この映画が何故僕のような人間にとっても面白いのか?──それはやっぱりホンの力だと思う。本谷有希子の原作の力なのか、脚本も担当した吉田大八監督の力なのか?──恐らくその両方だろう。
まさに研ぎ澄まされた観察眼によって構成された諸人物像。これが観客の心の中の暗黒の部分にズバッと斬り込んで来る。剥き出しの粘膜に触れてくる感じがある。毒素の強い物語である。
その原作を(と言っても僕は原作を読んだわけではないのだが)とてもうまく料理していると思う。何ヶ所かの回想を含むそれぞれのシーンの繋ぎ方が巧く、ストーリーがすーっと頭に入ってくる。
それから、CM出身の人は普段から30秒間のインパクトのための構図に腐心しているだけあって、非常に良い画が多い(たとえばサトエリが山に向かって自転車を押すシーンを見よ)。もっとも、ほぼ全編に渡ってあんなソフト・フォーカス風にする必要があったかどうかはちょっと疑問。
役者陣ではサトエリが派手なところを全部かっさらって行った感があるが、一番見事だったのはサトエリの義姉を演じた永作博美である。舞台であれば一番笑いの取れるオイシイ役回りである。この田舎臭い良心の塊みたいな存在が、ともすれば凄惨になりそうな物語の救いにもなっている。
それから、サトエリの腹違いの兄(永作の夫)役の永瀬正敏。デビュー当時から好きな俳優なのだが、今回も文句なしの演技である。
佐津川愛美については、個人的な経験も合わせて言えば、TVのバラエティに出てほとんどひと言も喋れずに、たまに喋ってもTV的に意味のある気の利いたことも言えないので全部カットされて、ただスタジオにいるだけの存在だったころのことを思い出してしまった。
まあ、今では立派に司会をこなしている優香(そう言えば2人ともホリ・プロだ)だって、新人の頃は全く同じだったわけで、慣れればこなれてくる人もいれば、あるいはアドリブは駄目でも台詞があってト書きがある芝居なら巧くできる子もいる。今回の役はそれほど難しい役ではなかったとは思うが、まだまだこれからもっと伸びる子なのかもしれない。
ともかく非常に面白かった。
ところで、あのエンディング、どうなんでしょうね?
僕は原作通りでも良かったような気がするんですが・・・。
いずれにしても、1ヶ所の欠点で全体が損なわれてしまうような映画ではない。非常にバランスのとれた秀作であった。今後の吉田監督に注目しよう。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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