『殯(もがり)の森』を途中まで観る
【6月25日特記】 『殯(もがり)の森』を途中まで観た。見る環境によって「もがり」の字は文字化けしているかもしれない。インターネット時代にわざわざこういうちゃんと表示できるかどうか判らないような文字を選んでタイトルにするのもどうかと思う。僕なら間違いなく避けるけどなあ。
だいいち「もがり」と打って変換キーを叩いても出て来やしない。
どうしてこんな小難しいタイトルをつけるんだろう? これが例えば倉橋由美子の小説のタイトルなら何の違和感もない。漢籍からギリシャ神話まで驚異的な読書量を誇る彼女の語彙には、こういう難しい単語が含まれている可能性が充分あるからだ。でも、凡人がこういう単語を持って来ると如何にも借りてきた感がある。
河瀬直美が凡人なのか凡人でないのか判断できるほど僕は彼女についての情報を持ち合わせていないのだが、少なくともこういうタイトルを持って来るところを見ていると「私は凡人ではない」と主張したがっている人物に思える。
どうも僕はこの監督とは相性が悪いようである。
『萌の朱雀』はテレビで見た。例によって僕は観た映画についてほとんど何も憶えていないのだが、死ぬほどしんどい映画だったという記憶だけはある。ひょっとして最後まで観なかったのではないかと思って記録をチェックしてみたら、一応最後まで観るには観たようだ。
でも、しんどい映画だった。
そして、今回の映画のテーマは認知症だ。自分の母親が認知症に罹ってしまった身としては微妙な映画である。もちろん、身内に認知症の人間がいても、それがどの段階にあってどういう状態にあるかによって、こういう映画を見るのが辛かったり割合平気だったりするもんだ。
幸いにして僕は今、割合平気な状態にあると思う。それで、この映画を観てみることにした。
東京での劇場公開は始まったようだが、僕が今日見たのはカンヌのグランプリ受賞の数日後にNHK BS-hi で放送したのを録画したものである。
で、映画が始まると、全面いきなり山だ。そして緑の木だ。なんか嫌~な予感。
確か『萌の朱雀』もこんな感じのオープニングではなかったか?
風にそよぐ緑の草原に浮かぶ白い幟と赤い唐傘──西洋じゃあこういうの受けるんだろうな、と思う。
んで、出てくるのは殆ど無名の役者と素人ばっかり。美しい風景があって、多分書き込まれた台詞ではない会話が流れている。
ドキュメンタリなら解るんだ。でも、フィクションでどうしてこっちの方向に行くんだろ? なんとも中途半端な気がする。妻が横から「こういうの、美しいって言うんじゃなくて、退屈だって言うんだよ」と言う。同感。
で、冒頭30分ほど観て止めてしまった。
若いころの潔癖な僕なら途中どんなにしんどくても退屈でも最後まで辛抱して観ただろう。でも、今はもうそういう根気がない、と言うか、もはやそういう人生観では生きていないのである。
どんなに素晴らしい映画であっても、それを1本見逃したくらいどうってことないのである。テレビを消して他のことに時間を使うことにした。
もちろん、ろくに見てもいない作品を批評する気はない。
もし、ここより上の行で批評しているような記述があるとしたら、それは映画に対する客観的な判断でも主観的な感想でもない(そういうものは最後まで見なければ形成されない)。それは単に僕の心理状態を表そうとして書いた表現である。
だから、いたずらに河瀬直美監督を貶めようという魂胆は全くない。
ただ、僕はどうも、この監督、好かんのである。
Comments
こんにちは。
大道芸観覧レポートという写真ブログをつくっています。
映画「殯の森」もとりあげましたた。
よかったら、お寄りください。
http://blogs.yahoo.co.jp/kemukemu23611
Posted by: kemukemu | Saturday, December 01, 2007 16:26