映画『しゃべれども しゃべれども』
【6月23日特記】 映画『しゃべれども しゃべれども』を観てきた。
平山秀幸がファースト助監督を務めた作品は6本観ているが、監督作品となると『レディ・ジョーカー』以来2本目だ。あれは失敗作だった。そもそも高村薫のあの大著を2時間の映画にしようとしたのが失敗だったと思う。
その一方で大林宣彦が宮部みゆきの『理由』を、あれだけ登場人物が多いのに見事に映画化していたのを思い出して、やっぱり平山秀幸と大林宣彦では監督としての格が違うのかななどと思ったりもする。
てなことは、まあ措いといて、この映画、非常に評判が良いのである。だから、平山監督に対するそんな先入観は抜きに観てみることにした。確かに今年観た邦画の中ではかなり上位に来る出来である。
落語家とかアナウンサーとか、喋ることを職業にしている人がいる。そういう人は喋るのが巧いのだろうと世間は思うらしくて、そういう人を講師にして喋り方教室みたいなものを開くと結構生徒が集まるものである。ただし、ただ喋るということとちゃんとコミュニケーションを成立させるということは全く別物なのであり、喋ることで生計を立てているからと言って私生活でも立派に会話ができているかどうかは分からないのである。
主人公の今昔亭三つ葉(国分太一)もそんな人間のひとりである。もっとも本職の落語のほうもまだ二つ目で近々真打ちに上がれそうな気配もない。なのに、そんな彼のところに巧く喋れない生徒たちが集まってくる。
美人だが無愛想で口が悪く男に振られてばかりの五月(香里奈)、関西からの転校生で、その言葉のせいかクラスメートに馴染めない少年・村林(森永悠希)、そして元野球選手で現在は解説者なのだが、普段は毒舌のくせにマイクの前に座るとしどろもどろになってしまう湯河原(松重豊)。
そんな3人との落語教室で教える三つ葉と、師匠・今昔亭小三文(伊東四朗)から教わる三つ葉の両方が並行して描かれる。クライマックスは落語教室の発表会と今昔亭の一門会である。
映画が始まってすぐに、長めのカットを重ねて役者にゆったりと芝居をさせようという態度が見えてくる。カット割りで役者の緊張感を切らないように複数台のカメラを回していることにもすぐに気づく。──こういうのを見ると監督が映画というものをどう捉えているかが観客にはっきり示されて伝わってくるような感がある。
それぞれのカットが監督の綿密な指示によるものなのか、任された撮影監督の手腕なのか、観ているほうには区別のつきようがないのだが、でも、この藤澤順一というカメラマンの名前がクレジットされている時はいつも非常に印象的だ。
前述の通り、長めのカットが多い。そして、あまりワンカットで撮ろうと思わないようなシーンが不思議に雰囲気のあるワンカットに収まっているのである。
伊東四朗が講師を務めた話し方教室から出て行く香里奈を追って画面奥から手前に廊下を歩いてくる国分。結局香里奈とうまく話がつかなくて彼女はフレームアウトして、それをさらに追っかけて手前に来て結局諦めて踵を返して奥に引き返して行く国分──この奥行きをうまく使ったワンカット。
国分の家から出たところを右に曲がって帰って行く3人の生徒の後ろ姿。カメラが右にパンするとまだ家の前に立っている国分と祖母の八千草薫の正面からの2ショット──この不思議な角度のワンカット、等々。
最後はまるで幼児用のジグソーパズルみたいにすんなり収まるところに収まってしまう、ある種「読めるストーリー」だったけれど、これはこれで心地良い。
なんだか非常に心温まる話である。僕は「等身大の」という表現が大嫌いなのだが、こういうのを等身大と呼ぶ人がいる。僕はこれを「身の丈に合ったストーリー」と呼ぼう。
役者が非常に良かった。
かつてはお人形さんみたいな女優だった香里奈が成長著しかった(役の設定としてはイマイチ苦悩の大元の原因が見えてこないという恨みはあったが)。落語も含めて国分の見事な演技。そしてその自然さにおいて八千草薫の右に出る人はいまい。
過剰な関西弁とふてぶてしさで存在感を誇示しただけでなく、まさに桂枝雀風の『まんじゅうこわい』を復活させた森永悠希、そしてそして、あの怪優・松重豊である──僕はこの人が出ている映画を映画館で観るのはこれが12本目である。
パンフを読んでいて気づいたのだが、僕はテレビで平山監督の作品をもう2本観ていた。1本は『OUT』。これは途中で嫌になって止めたかもしれない(記憶が定かでない)。そして、もう1本は『対岸の彼女』。これは良かった。
平山監督は語っている。
あの(ラストシーンの)後、あのふたりは大喧嘩してますよ(笑)
一門会のくだりで“上手くなった”ように錯覚するんですね。だけど、たまたまあの日は上手くいって、次また同じ噺やったら駄目なときもあると思うんですよ。
映画作ってても、“いいね”と言われたり“最低”と言われたり(笑)。そういうことの繰り返しなんで。
なるほど確かにそうかなあと思う。全てのコミュニケーションに当てはまりそうな話である。
東京下町の風景がとても活き活きと捉えられていて、ちょっと『の・ようなもの』(森田芳光監督)を思い出してしまった。パンフに「平山監督は今回、あまり策を弄していない」と書いている映画ジャーナリストがいるが、この人は完全に騙されていると僕は思う。
そこにはしっかりとした平山監督の計算があって、それが見事に功を奏したのが今回の映画だと思うからである。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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