『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー(書評)
【5月12日特記】 僕がレイモンド・チャンドラーの7つの長編(『大いなる眠り』以外は清水俊二訳)を立て続けに読んだのは20年ほど前のことである。
ほんの2年前に読んだ本であっても、面白かったか面白くなかった以外何も憶えていないのが僕の特性で、20年前に読んだ『長いお別れ』がどんなお話であったかは皆目憶えていなかったし、もちろん読み進むうちに思い出すこともなかった。
ただ、この本を手に取ったときにまず思ったのは、「なんで村上が訳すとこんな大著になるのだろう?」という驚きであった。確かにハヤカワ・ミステリ文庫の時も厚手の文庫ではあったが、今回の厚さは尋常ではない。
その謎は、まだかなりのページ数を余して本編を読み終えたときに部分的に解けた。その後なんと村上春樹によるあとがきが45ページも続くのだ。そして、事前に充分に予想したことだったが、このあとがきがこの本の中で一番面白かった。
一般に言われるダシール・ハメット→チャンドラーという流れ、そして現代アメリカ文学全般に与えたヘミングウェイの多大なる影響に加えて、村上はこの『ロング・グッドバイ』をスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に“重ね読み”するという快挙(あるいは暴挙)に及ぶのである。テリー・レノックス=ジェイ・ギャツビー、フィリップ・マーロウ=ニック・キャラウェイなのだそうである。
これを「穿った見解」とか「独特の解釈」などと呼ぶのはむしろ失礼に当たる。こういう読み方することを「読み込み」と言うのである。読み込みに対しては正しいか間違っているかというようなことはなくて、面白い(興味深い)かそうでないかということがあるのみである。そして、この村上の読み込みは論外に面白い。
で、このあとがきをさらに読み進めて行くと、かつての清水訳ではかなり多くの文章、あるいは文章の細部が意図的に省かれているという事実が指摘されている。これで、この本がこんな大著になった理由が完全に解けた。そして、村上は、彼がこの本を「完訳」してみたかったのはチャンドラーが「寄り道の達人、細部の名人」であるからだと(いくつか例を挙げながら)指摘している。このあたりはまことに見事な分析である。
この小説を、そしてチャンドラーを生まれて初めて読むという人は別として、僕と同じように、清水訳を読んだのがもう随分前で既に印象も薄れてしまっているという人は、先にこのあとがきを読んで、それから本編に戻るという読み方もアリではないかなあという気がした。
村上のあとがきのことばかり書いてしまったが、それは、小説本体の面白さについてはこのあとがきが余すところなく書ききってくれているからである。そういう意味では手抜きの書評になってしまった。お許しあれ。
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