映画『バベル』
【4月29日特記】 映画『バベル』を観てきた。
タイトルが良くない。
このタイトルさえなければ、表現がやや乱暴なところはあるが、一風変わった良い映画だと思うのだが・・・。
驕り昂った人間が天に届くほどの高い塔を作り上げたため神の怒りに触れ、それまでは一つの言語で会話していた人間は、乱されて数多くの言葉を語るようになり、お互いの意思は通じなくなった。
『バベル』と聞けば、誰もが旧約聖書にあるこの話を想起するはずだ。だから、このタイトルは人間の愚かさを糾弾するような響きがある。たかが人間の分際で監督はよくもまあこんなタイトルをつけたものだと思う。
もちろんこの映画を観て、人間の驕りや昂りを痛感する観客もいるだろう。それはそれで良いのであるが、あくまでそれは内容からであるべきでタイトルからしてそうあるべきではないと僕は感じるのである。タイトルはもっと曖昧に広く構えるべきではなかったかと思うのである。
もちろん、監督が作品のタイトルに自分の思いを込めるのは自由である。そして、逆にそれを観た観客がそのタイトルに反感を覚えるのも自由である、と言うか妨げ得ない。
ひょっとしたら、監督の思いは「創世記」の中の、言葉が乱されるにいたったプロセスにではなく、結果として意思が通じなくなってしまった世界の現状に向いているのかもしれない。
でも、僕はこのタイトルを聞くとどうしても人間の愚行に対する天罰というイメージを拭い得ない。やっぱり、このタイトルはないんじゃない? もっと間接的な象徴的なタイトルがあったんじゃない?などと思ってしまうのである。
モロッコを旅行中の気まずくなりかけのアメリカ人夫妻(ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット)。バスの中でそのケイトが突然撃たれる。
撃ったのは近所に住む兄弟。父親に渡された、そもそもは家畜の山羊を襲うジャッカルを追い払うためのライフル。悪ふざけから撃った弾丸が図らずも人間に当たってしまったのだが、その背景には自分よりも射撃がうまく何かにつけて要領の良い弟に対する兄の嫉妬も関係していた。
一方、撃たれた夫妻がアメリカに残してきた子供たち(ネイサン・ギャンブル、エル・ファニング)と乳母アメリア(アドリアナ・バラッザ)。アメリアはその日、暇をもらって息子の結婚式に出るために故国メキシコに帰るつもりでいたが、両親がそんなことになって放って行く訳にも行かず、2人の子供たちを連れて、甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)の運転する車で国境を越える。
さらに話は別の国に繋がる──モロッコでの犯行に使われたライフルはそもそも日本人ヤスジロー(役所広司)がモロッコにハンティングに行ったときに、良くしてくれたガイドにお礼代りに譲ったもの。そして、彼には自殺した妻と聾唖者の娘(菊地凛子)がいた・・・。
──という具合に話は4ヵ国に及び、それがうまく繋がっているようでもあり、バラバラなようでもある。
この映画の最も良いところは、いかにもアメリカがアメリカで、モロッコがモロッコで、メキシコがメキシコで、東京が東京であるところだ(もちろんそれは単に「それらしく見える」ということに過ぎないのかもしれないが)。
コミュニケーションをテーマにそれなりにまとまった脚本だと思うし、役者たちの演技も良いし、観客それぞれに様々な想像を掻き立てる力強い作品であると思うのだが、冒頭に述べたように、このタイトルがそういう可能性をひとえに狭めていると思う。
多様な解釈を許すのが映画というものの醍醐味だと思う。それを阻害するようなタイトルはよろしくないと思うのである。
気にならなかった人もたくさんいるのかもしれないが、僕としてはとても残念であった。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
Comments