映画『バッテリー』
【4月2日特記】 映画『バッテリー』を観てきた。
始まってすぐに思ったのは、人間の歪み方がちゃんと描かれているなあということ。
天才野球少年・巧(林遣都)がいて、病弱な弟・青波(鎗田晟裕)がいて、弟の青波に過保護な愛情を注ぎこむあまり兄の巧に辛く当たってしまう母(天海祐希)の歪んだ言動。
新田東中学の野球部・顧問として思い上がった独裁性を発揮している戸村(萩原聖人)。そして、巧との野球対決に敗れると巧の我がままを黙って許すしかない彼の歪んだ対応。
巧の才能と傲慢さと自由奔放な生き方に対する嫉妬と逆恨みから巧に対するリンチという暴挙に出てしまう野球部の先輩たち。リンチの現場を見咎められても、すべて巧のせいだと主張して自分たちが道を外れてしまったことが認められない歪んだ判断力。
自分たちが生徒をどう管理するかという点からしか物事を考えられない校長(岸部一徳)の歪んだ決断。
そして、巧自身は苛立っている。最初のうちは何に苛立っているのかよく見えない。やがてそれは恐怖と孤独感の裏返しだと解る。歪んだ苛立ち。そして頑なさ。
そう、人間は歪んで、苛立って、頑なになる。何か小さなきっかけで急に素直になったりはしない。素直になるには年季が要るのである。
巧にとって、その「小さなきっかけ」になり得たのが、巧とバッテリーを組むキャッチャーの豪(山田健太)である。しかし、豪も所詮は中学生。敵チームの陽動作戦に引っ掛かって、自ら歪み、苛立ち、頑なになってしまう。野球を辞めさせようとする豪の母(濱田マリ)もまた歪んでいる。
そんなこんなが少しずつほぐれて行く。多分ほぐれてもまた歪み、苛立ち、頑なに戻る。でも、そんなことを繰り返しながらでないと却々一挙に素直にはなれないのである。
この映画はある種ハッピーエンドである。このままずっと右上がりにハッピーではなく、また少し歪んだり、苛立ったり、頑なになったりするんだろうなという予感は残しながらも、良いほうに向かったところで終わる。
現実は必ずしもそうは行かない。ずっと素直になれないまま終わる人だって、残念ながらいるのである。でも、観客に「そんな巧いこと行くもんか」と思わせるか、「ああ、良かったなあ」と思わせるか──そこで監督の真価が問われるのである。
僕は、こんなひねくれた人間でも、「ああ、良かったなあ」と思った。最後の球場のシーンでの「仕掛け」には、もう少しで涙が溢れるところだった。やられた。
滝田洋二郎は1986年の『コミック雑誌なんかいらない!』の頃から結構好きな監督で、映画館で観るのはこれが7本目である。あさのあつこの原作小説も柚庭千景によるコミックスも読んだことがない。
映画を見ながら思ったのは、この脚本は一体誰が書いたのだろう、この美しい風景と構図は一体誰が撮影しているのだろう、ということだった。
終わってから名前を見て大いに納得した。脚本は森下直。TVの仕事も多く、ウチの会社にも熱烈なファンがいる。撮影は北信康。最近では『ラフ』を撮った人だ。
主演のバッテリーが2人とも演技未経験のずぶの素人とは信じられない。人生と野球を知り尽くした祖父を演じた菅原文太と、うだつの上がらない、でも、見るべきところをよく見て、語るべき言葉をよく知っている父親を演じた岸谷五朗が最高だった。
キャッチ・コピーが利いている──「きっと、最高のバッテリーになる」。
単なるスポ根(表現古すぎるか?)でもお涙頂戴映画でもない。見ればきっと感じるところがあるはずだ。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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