『真鶴』川上弘美(書評)
【3月29日特記】 最近つくづく思うのは、人はとかく安易に、全体から特徴的なひとつの要素を抽出して、その抽出した一部分でもって全体を代表してしまいがちだ、ということである。そういう傾向は「なんのかんの言っても要するにこういうことだろ」とか「世の中所詮は金だ」みたいな言い方に表れてくる。
我々がこの「特異な才能」をどこで身につけてしまったかと言えば、それは小中学校の国語の時間に何度となく繰り返された「作者がこの文章で言いたかったことは何でしょう」「200文字以内にまとめなさい」という問いに答える訓練によるのではないかと思う。しかし、そういう思考回路には明らかに無理があるし害悪がある。
たとえば、この『真鶴』という小説を読んで、「作者が言いたかったことは何か」「200字以内でまとめろ」と言われても、読者には到底できることではない。そして、恐らく作者にもできないのではないだろうか?
これだけのことを言おうとすればこれだけの文章が要るのであり、これだけの文章を読めばそれに相応しい量の化学反応が起きてしまうのである。
この小説を手短にまとめようとしてそれが果たせないのは、一義的にはこの小説がなんだか解らない小説だからである。でも、ただそれだけに留まらないのは、この小説が「なんだか解らない」と同時に「なんだか解るような気がする」小説だからである。
主人公の京と2人の男。ひとりは謎の失踪を遂げてしまった夫・礼で、もうひとりはその後に関係ができた妻子のある男・青茲。ひとりは過去の存在でひとりは現在の存在。そこに京の16歳になる娘・百(もも)の若さと、京の実母の老い行く姿が重ねられる。
そして、亡霊なのか幻覚なのか定かではない、京に「ついてくるもの」。自分でも理由がはっきりしないのに熱に浮かされたように何度も真鶴を訪れてしまう京。──謎は最後まで解き明かされない。
ただ、溜息が出るほど豊かな語彙で綴られた、自分では絶対に思いつかないだろうとは思うのだが読めば無性に懐かしく感じてしまう言葉たちに包まれた物語がある。
京の愛も、嫌悪も、我がままも自制心も、恐怖感も諦念も、どれを取っても短く要約できるものではない。それはこの小説を読んでみないと解らない。全体を全体として捉える者にしか、この感慨は伝わらないだろう。
現代人はもっとこういう小説を読まなければならないのではないかと思った。ともかく巧い。
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