『ひとり日和』青山七恵(書評)
【3月9日特記】 村上龍と石原慎太郎というタイプの違う2人の作家が激賞したとなると、これはもうかなり出来の良い小説なのだろう、と思って読み始めたら案の定すこぶる良く書けている。
「人生の機微を描く」だなんて評するのは簡単だが、こりゃなかなか書けんぞ。かなり巧い! 相当筆の立つ作家だ。
母娘2人で暮らしていたフリーターの主人公・知寿が、母の海外赴任をきっかけに東京郊外に独居していた親戚の老女・吟子の家に転がり込み、やがて自らも独り暮らし(と言っても寮生活だが)を始めるまでの物語だ。
ミニマリズムに根ざした短編は別として、こういう「なんにも起こらない」系の小説には2つある(あくまで上手く書けている場合の話だが)。
ひとつは作家個人の非常に主観的な「私」の世界に入り込んで抜けようにも抜けられない迷宮のごとき作品。もうひとつは、この『ひとり日和』のように「私」あるいは主人公をもう少しクールに突き放したと言うか、いや、突き放してはいるけど少し離れた所からそっと見守っているような風情がどこか残っている小説である。その何とも言えない微妙な感じがこの小説の絶妙の味付けになっている。
こんなことを書いてしまうと身も蓋もないが、これはあまりぱっとしない女のぱっとしない日常を描いた小説である。自分から何かを求めて積極的に打って出ないので当然の如くぱっとした出来事に遭遇しないのである。淋しい小説である。
でも、その淋しさはよく咀嚼された淋しさなのであって、ここが常人には書けない点なのである。
主人公の知寿は確かに世間的に見ればぱっとしない女だろう。ただ、この作家は世間が見ない部分をちゃんと見て書いている。こういう小説では、読者が「なんだ、つまんねー女」と思うか、それとも「私にもそういうこと、ある。私もそういうつまんない女かもしれない」と思うかが別れ道ではないだろうか。
世間の見ないところを作家が見てくれていると、読者のほうも世間が気づかないことにふと思い当ったりするものだ。
もうひとりの主要人物である吟子は知寿と対照的に描かれてはいるが、決して積極的で活力溢れる女性ではない。なにしろ年が年だけにそんなにエネルギーはない。それは年のせいかもしれないが、やっぱり今では知寿と同じ淋しい女でしかないのである。
でも、非常に目鼻の利く、そして絶妙のタイミングで絶妙の言葉を紡ぎ出すことができる作家のおかげで、つまんない女/淋しい女の話がいつの間にか人間一般の話にすり替わってしまう。
これだから巧い作家には敵わない。
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