映画『幸福な食卓』
【2月23日特記】 昨夜、映画『幸福な食卓』を観てきた。さる「信頼できる映画通」の薦めを受けてのことだ。
言葉に詰まってしまうぐらいの、予想を遥かに超える出来だった。
ちょっと大騒ぎしても良いんじゃない?
本当に見事な出来栄えだった。
僕は瀬尾まいこの原作を読んでいたので、映画化の話を聞いたときには正直言って無理だと思った。
お父さんは自殺未遂するし、お母さんは家を出て行ってしまうし、秀才で通っていた兄・直ちゃんは大学進学を諦めて突然農業を始めるし、かと思えば朝の食卓でお父さんが「父さんは父さんを辞めようと思う」と言い出すし・・・。かと言って、陰惨な話でもないし重苦しい文体でもない――。
原作はそういう、あまり現実感のない状況を描いた小説であり、あの小説の半ば宙に浮いたような雰囲気、浮揚感を映像に写し取るのは無理だと思っていた。だが、出来上がった映画は違っていた。
この映画はあの抽象的なフンワリ感を真似るのではなく、原作の登場人物たちに血肉と質量を与え、現実感のあるキャラクターとして映像の中に再固定することに成功していたのである。
仰天!
すごく良い! でも何がすごいのかがはっきり判らない。
確かに構図が良い。たとえワンショットのクローズアップの画であっても非常にセンスを感じさせる構図である。だが、どこがどう素晴らしいのか、うまく言えない。
2人の会話のシーンをワンショットずつに分けて撮影する場合、カメラはお互いの目線になっている――でも、そんなことは他の映画でもしょっちゅうやっていることだ。
長谷川康夫の脚本も抜群に冴えている。語り過ぎない。原作をそのまま活かした台詞を非常に効果的に配している。
役者も全員、目を瞠るような演技だ。北乃きいが演じた主人公・佐和子もさることながら、勝地涼の大浦勉学が特に良い。さくらの小林ヨシコもぴったりの配役。羽場裕一の父さん、石田ゆり子の母さんを含め、すべての登場人物が素敵に描かれている。
でも、そんなことじゃないんだ。何故かうまく分析しきれない。悔しい気がする。
それは分析できない悔しさではない。分析しきれないということは、つまり明示的に切り分けてしまえない、“感覚”としか言いようがないものがあるということだ。
僕の悔しさは小松隆志監督の映画感覚に対する嫉妬である。僕が持たざるものを持つ者に対する悔しさである。映画を観て妬ましく感じてしまうのも本当に久しぶりである。
終盤の食卓にお皿を置くシーン、勉学の弟と佐和子の坂道でのシーン、どれもじんわりと沁みる。
僕は映画になって初めて原作のメッセージを受け取ったような気がする。
――形に囚われないこと。別の形を試してみること。そして、もしチャンスがあれば一度もとの形に戻ってみること・・・。
見た目はバラバラに思えるこの家族の中で、実はほんわりした絆がちゃんと息づいていたのだ。
ラストの長廻しで、ミスチルの『くるみ』をバックに佐和子が歩く。
近年ろくに詞が書けないソングライターが増える中、これは詞も曲も圧巻、紛れもない桜井節である。
見終わってからいつまでも語りたい、でも何ごとも語りすぎてはいけない――そんな映画だった。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。


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