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Saturday, February 24, 2007

『夢を与える』綿矢りさ(書評)

【2月24日特記】 『蹴りたい背中』のあまりの巧さに舌を巻き、新作が出るのをずっと心待ちにしていた。

大きな期待を抱きながら読み始めると、いきなり出てきたのは幹子という30過ぎの女性である。当然作者と同じ若い世代が主人公であろうと踏んでいたので大いに驚いた。

若い作家というものは自分より上の年代をなかなか巧く描けないものだ。果たしてうまく書けているのだろうか? いや、読み進めるとやはりぎこちない。それに話が走りすぎる。作家に走られると読者は乗り切れない。ちょっとがっくりかなと思いながらさらに読み進むと突然ギアが切り替わった。

幹子は無理やりトーマと結婚し夕子が生まれる。幹子は夕子をモデル事務所に入れる。その辺りから主語も視点も夕子のものに変わり、幹子とトーマは「母親」「父親」と表記されることのほうが多くなってくる。そして、その辺りからが綿矢りさの真骨頂である。

たとえば『蹴りたい背中』の冒頭のような、考えて考えて考え抜いた凝った表現はどこにもない。だが、着実に腕を上げた地道な表現力でじっくりと惹きつけて読ませる。最初の20~30ページのぎこちない文章はここに繋げるためにどうしても必要だったのだ。

中学から高校卒業にかけての少女が立ち上がってページの上を鮮烈に動き出す。タレントという特異な仕事に就いてしまったティーンに、ある時は無意識にある時は顕在的に重くのしかかるプレッシャーが、手心を加えることなく描かれる。この業界のこともそこそこ取材してから描いたようで、僕らが読んでいてもそんなに違和感がない。そして驚いたのは、男と女の、もっと解りやすく書けば肉欲の世界がちゃんと描かれている。

人気を登りつめやがて落ちてゆく。作り上げられてやがて壊れてしまう。結構救いのない話である。最後は突き放したようにバサッと切り落として終わってしまう。このそっけないタイトルと、このむごいような終わり方にはかなり議論が出るかもしれない。

だが、僕には悪い読後感はなかった。綿矢りさは健在であった。20代の作家に「健在」という表現は似つかわしくないかもしれないが、僕はこの言葉が使いたくなった。そう、成長よりも健在ぶりを感じさせる小説だった。

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