網羅的にではなく象徴的に
【1月23日更新】 網羅的に書かずに象徴的に書こう──というのが最近の僕のテーマである。それは僕が自分のHPのメニューページで標榜している“薀蓄よりも含蓄”というフレーズにも通ずる。
「できてないじゃないか」と言われれば返す言葉もないのだが、少なくともそういう心懸けだけはある。いや、心懸けはあっても却々できない、と言うべきなんだろうか?
例えば「映画『それでもボクはやってない』2」などという記事を書いてしまうところが、網羅的になってしまって象徴的に書けないことの象徴である。ただ、それをいっぺんに書いてしまわずに、初日は「映画『それでもボクはやってない』1」だけで止められたところは、我ながら少し評価している。
とかく網羅的な文章を書いてしまうのは、僕が象徴ではなく網羅に走ってしまう傾向のある書き手であるということにも由来する(だからこそ象徴的に書こうと心懸けている)。しかし、そもそも網羅的に考えてしまうのが間違いなのかと言えば、そうとは思っていない。
考える段階においては、網羅的であることが求められると思う。ブログの場合はそこですぐに書いてしまう。熟成する暇がない。積み上げたものを一旦解体して再構築する余裕がない。削ぎ落としたり練りこんだりする作業が欠けているのである。
そういう意味ではブログは書き殴りの文化だなあ、などと自分の修養不足を棚に上げて妙なところに視線を移してみたりもする。
ただ、視線を移すという作業も、これはこれで必要な作業なのである。文章を書く上でも必要だと思う。
文章を書くために心に留めておくべきことは多い。
砂の中から石を掘り出すように文章が書けたら良いなあと思う。
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