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Monday, January 22, 2007

映画『それでもボクはやってない』2

【1月22日特記】 昨日観た『それでもボクはやってない』のどこがそんなに素晴らしいかったのかと考えてみると、結局台本の構成、とりわけ登場人物の設定ではないかと思う。

「構成がしっかりしている」と言う場合、それは必ずしも、台本を書く順序として、人物の設定をしっかり確定してからストーリーに手をつけるということではない。

ストーリーを進めながら登場人物の役割が次第にはっきりしてくることもあるだろうし、ある時点で根本に帰って人物を設定しなおすということもあるだろう。

いずれにしても、「キャラが立った」状態になると、書き手が一生懸命考えなくても登場人物が勝手に動き出してストーリーを進めてくれるようなことになる。これは、小説なり台本なりを書いたことがある人にしか解らないことだ(と書きたいところだが、残念ながら僕はそこまでうまく書けたことがない)。

この映画を企画するに当たって、当初主人公は中年サラリーマンであったらしい。イメージ・キャストは役所広司だったそうだ。

しかし、そういう人物を主人公にしてしまうと、彼の仕事はどうなったのか、会社の同僚たちはどんな反応だったのか、彼の妻や子供たちの苦悩はどうだったのか、と描くべき要素が増えすぎてしまう。それで、随分悩んで2通りの台本を4回ずつ書き直し、スタッフとも議論した上で結局しがらみのないフリーターを主人公にしたと言う。僕はその考え方が正解だったと思う。

主役に加瀬亮を決めてから、また彼用に台本に手を入れた部分もあると言う。それも当然だし、現にうまく行ったと思う。

周防監督は、役所広司が演ずる弁護士を元裁判官という設定にして、彼に裁判官の心理や苦労をいちいち語らせている。そういう形で公平を期すことによって、「刑事も検事も裁判官もみんな悪者でグルだ」という描き方を避けたのだ。何よりもこの映画を単なる糾弾一辺倒のものにはしたくなかったのだろう。これも本当に見事な心遣いだと思う。

ただ、僕が映画を見ていて、最初の裁判官の正名僕蔵はとことん良い人に見えたし、途中から担当になった小日向文世の弁護士はやっぱり悪党に見えた。これは僕の洞察が足りなくてものの見方が偏ってしまっている証拠なんだろうか? うーむ。

それはさておき、痴漢という行為は女性にとっては憎むべき、忌み嫌って当然の卑劣な犯罪である。男性もそのことは解ってはいるが、生理的な感覚としては随分違う。そのことがあるので、この映画にはどうしても女性目線が必要となってくる。そこで入れ込んだのが瀬戸朝香の新人弁護士である。

彼女が当初「痴漢の弁護はしたくない」と渋るところが後々非常に効いてくる。そういう描写をきっちりしてあるからこそ、被害者の少女が証言台に立つシーンで、観客は彼女が間違っていると知っていながら、一方で彼女が可哀想になるのである。この辺り非常によく計算されていると思う。

女性目線としてもうひとり入れ込んだのが鈴木蘭々が扮する加瀬の元カノである。彼女は話を聞きつけて元恋人の力になりたいと思って駆けつけてくる。

加瀬は「何で呼んだんだ? 俺たち別れたって知ってるだろ」と怒る。その気持ちよく解る。別れた彼女に痴漢容疑者の姿なんか晒したくないもんね。

再現ビデオを作成する際に、彼女は被害者の女子中学生役を務める。「それじゃ、スカートの中に手を入れてみてください」と指示された加瀬が蘭々に「触る真似するだけにするよ」と小声で呟く。蘭々が答える「触っていいわよ。そのためにスパッツはいてきたし」──これ、なんだかとっても悲しいよね。

そして、もうひとり重要な女性役がもたいまさこ演ずる加瀬の母親である。「私はずっと裁判というのは悪い人を裁いているんだと思っていたけど、そうじゃなかったんですね」という素朴な感想──この台詞はこの映画の中で秀逸だったと思う。この台詞を、あの微妙な表情で言える役者はもたい以外にいないのではないだろうか。

その他、加瀬の友人役の山本耕史も意図的に加瀬と対照的なキャラに設定してあったし、周防映画の常連とも言える竹中直人(加瀬のマンションの管理人)・徳井優(拘置所の看守)・田口浩正(痴漢の目撃者)を始め、同じく痴漢の目撃者役の唯野未歩子、被害者の柳生みゆ、加瀬を取り調べた刑事の大森南朋、当日の当番弁護士の田中哲司、同じ拘置所にいる同性愛者(らしき男)の本田博太郎、同じように痴漢冤罪に問われている光石研、裁判官の正名僕蔵・小日向文世・大和田伸也、検事の尾美としのり、副検事の北見敏之、傍聴人の高野長英、傍聴オタクの山本浩司と、これだけ出演者が多いのに、それぞれ見事にキャラが立っていて、映画の中で占める役割がはっきりしている。

この設定の確かさ、構成のしたたかさこそが、この映画の素晴らしさの秘密ではないだろうか。

これを「キャスティングの成功」という言葉でまとめてしまうのは少し芯を外していると思う。単にキャスティングの問題ではない。台本の構成の問題なのである。

なお、この記事にはパンフから得た情報が相当量含まれている。

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