『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン(書評)
【1月23日特記】 ブローティガンは名前しか知らない作家だったのだが柴田元幸『翻訳教室』で初めて(しかも原文に)接してみて、1冊読んでみずにはいられなくなった。
東大の翻訳演習の教材になったその作品は Pacific Radio Fire という小説だった。音楽番組がかかったままのラジオに火をつける話。ラジオが燃えて行くに連れて、ラジオから流れていたヒット・チャート1位の局が13位に落ちたりする、不思議な小説だった。
この『アメリカの鱒釣り』はそれに比べるともう少し荒唐無稽である。いや飛んでるというべきか、あるいは訳が分からんと行ったほうが良いかもしれない。
これはアメリカの鱒釣りの指南書でもないし、それをテーマにした物語でもない。<アメリカの鱒釣り>は生きているのである。主人公は<アメリカの鱒釣り>宛てに手紙を書いたり、ビッグ・ウッド川で<彼>に出会ったりしている(それはヘミングウェイが自殺した直後のことだった)。
それとは別に<アメリカの鱒釣りちんちくりん>なる人物も登場するし、<アメリカの鱒釣りテロリスト>たちもいれば<アメリカの鱒釣り平和行進>も催される。何のことだかさっぱり分からない。でも、酔っ払いが急に素面に戻って妙に鋭い指摘をするみたいに、突然胸に刺さってくるような描写があったりする。
「魚は再び深く潜り、わたしは釣糸を通して魚の生命から発するエネルギーが、怒鳴り返すようにわたしの手におしよせるのを感じた。釣糸が音になった。赤いライトを明滅させてわたしめがけて直進する救急車のサイレンみたいだった。やがて、それは遠ざかったかと思うと、今度は空気を震わせる空襲警報になった」(「せむし鱒」)
──こういう文章がまるでデタラメみたいなストーリーの中に放り込まれているのである。
この本に収められた47の短編は互いに何の関係もないようでいて、微妙に繋がっているような気もする。その癖この小説の主人公(あるいは話者)が作品ごとに異なっているのか別人なのかさえ判らない。
「クリーヴランド建造物取壊し会社」では小川を1フィート単位で売っている(僕にはこの作品が一番印象深かった)。──こういう無尽蔵なまでに自由な想像力は、もう一歩行き過ぎるとただの無意味な遊びに思えて、読者は読む気をなくしてしまう。しかしこの小説は、そこまで行く寸前で読者の胸の深い深いところに染み入って来るのである。
読者はとかく深読みをしてしまう(例えば僕は全編を通じて「穏やかな喪失感」とでも言うべきものを嗅ぎ取った)。しかし藤本和子が訳者あとがきに書いているように、作者の笑う声が聞こえてくるのである。深読みをする読者を笑っている声が聞こえてくるのに、それにもかかわらず、我々はその深い感慨から暫く抜け出すことができない。
常人には決して書き得ない、類稀なる小説である。
アメリカの歴史と文学に詳しかったら、多分もっと面白かったのではないかと思う。
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