『ティム・バートンのコープスブライド』
【11月13日特記】 昨夜 WOWOW で『ティム・バートンのコープスブライド』を観た。
妻は見始めて30分で、「なんか、如何にもアメリカらしい、ブラック・ジョークね」と呟くように言った。それが褒めているのだか貶しているのだかよく分からない言い方だった(見終わったら結局は「面白かったね」と言っていたが・・・)。
確かに僕も、映画館で最初に予告編を観たときには「そんなグロテスクな映画見たくない」と思ったものだ。ところが存外評判が良い。昨年のキネマ旬報の投票でも4人の審査員が点を入れて第66位に入っている。
そういう予備知識があったためか、何の抵抗もなく見始められたのだが、途中でなぜ抵抗なく見られるのかに気がついて少し抵抗感を覚えてしまったのである。
言うまでもなく、主人公の青年が結婚式の当日に誤って女性の死体と結婚の誓いを結んでしまう話である。
Corpse Bride のエミリーは死体である。この映画には他にも死体(と言っても動き回っている)がたくさん出てくるが、骨だけになった死体が多い中で、エミリーには、顔の部分を始め、まだ肉が残っている。
骨だけになってしまうと恐怖感や嫌悪感はかなり薄れるだろう。しかし、肉が残っているエミリーにはもっと凄みがあって良いはずだ。時々眼窩から目玉が飛び出して落ちるシーンも単にユーモラスでしかない。
そう、死体の話であるにも拘らず、これはファンタジーなのである。そして、そのためにエミリーには殆どおぞましさが出ていない。
エミリーの頭蓋骨の中に住んでいる虫は、本来であれば蛆虫のはずだが、彼はどう見ても青虫の類である。そんな(悪く言えば)インチキがそこかしこにある。
そして、なによりも死体には死臭、あるいは腐臭がつきもののはず。それが一番吐き気を催させるはずなのだが、この映画にはその臭いを感じさせるものがない。もちろん映画で臭いを伝えることは不可能である。しかし、そもそもこの映画はそれを描こうという気がないのである。
死人が生者の世界に繰り出してきた時に、すぐに死んだ祖父や連れ合いだと気づいて抱き合う描写があるが、いくら生前特別な関係であったとしても朽ちて腐った肉体を抱きしめるに至る前に激しい葛藤があって然るべきである。
アニメーションとしての出来はすばらしい。ストーリーも、予定調和ではあるが「良い話」である。だから、この映画が描こうとしている世界には臭いやおぞましさは必要なかったのである。
しかし、本当は、「死」はもっとおぞましいものとして描くべきではないだろうか?
若い人たちの自殺が問題になっているさなか、ふと、そんな風に思った。
主人公の男女の名前がビクターとビクトリア──英語圏の人間ならまず間違いなく victory という単語を思い出すだろう。
しかし、勝利はそんなにたやすく得られるものではないのではないだろうか?
ちょっと考えすぎだと言われるのは承知の上で書いてみた。
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