『NANA』再見と漫画原作映画
【9月3日特記】 WOWOWから録画しておいた『NANA』を昨年7月7日の試写会以来1年2ヶ月ぶりに観て長文を書いたのだが、間違えてブラウザの「戻る」ボタンを押してしまい消えてしまった。
同じ文章はもう一度書けないので、要旨を再現しながら少し書き換えることにする。
そもそもは朝日新聞で『NANA』と比較する形の映画評が書かれていた高田雅博監督の『ハチミツとクローバー』、『NANA』と同じ大谷健太郎監督による『ラフ』、『ラフ』と同じくあだち充原作による犬童一心監督の『タッチ』という4本の漫画原作映画の出来の違いについて書こうと思ったのである。
僕の感想としては『NANA』の出来が断トツの一番で、それに次ぐ『タッチ』、そして少し遅れて『ハチクロ』、さらに間が開いて『ラフ』である。
『NANA』を観ながら、この4本の出来の違いは何なのだろうと一生懸命考えたが、結局は“センスの違い”としか言いようがないのである。
同じように撮っても、印象的な画を収めることができるかどうか、俳優に生きた台詞を喋らせられるかどうかは結局監督の手腕、と言うかセンスでしかないと思った。
特にいつまでも心に残る、印象の強いシーンの数ではやはり『NANA』が圧倒的である。そういうところを見ると、やはり映画は第一義的に映像芸術なのだなあと強く感じる。
では、同じ大谷監督でありながら『NANA』と『ラフ』とではどうしてこんなに差が出てしまったのだろうか?
もちろんカメラマンや脚本家が違うということもあるだろうが、詰まるところ原作の力の差ではないかと思った。
映画『NANA』は、原作で登場人物たちが身に着けているものの再現性に定評があった。そして、『NANA』も『タッチ』もともに原画のカット割りをそのまま映画に再現していた。そこには原作に対する素直なリスペクトがあり、「自分流にアレンジしてみよう」という衒いが全く感じられない。その点も良かったのではないだろうか。
結局のところ原作が素晴らしいから映画が素晴らしいとなると、それは映画の力ではなく原作の力ということになってしまい、それでは監督にとってあまり嬉しいことではないはずだが、監督の頭の中には「それでも良い」というくらいの気持ちがあったのではないだろうか?
『NANA』の素晴らしさは、自由奔放な、まるで野良猫のようなナナ(中島美嘉)と、依頼心が強くて人懐っこい、まるで飼い犬のような奈々(宮﨑あおい)との対照が本当に見事であった点にあると思う。
だから映画『NANA』と映画『ハチクロ』の差は原作の洞察力の差であって、決して朝日新聞が書いたような「セックスが描かれているかどうか」の差ではないと思う。
僕のようなおっちゃんが、こんな青春恋愛ドラマを観ながら何度も目頭が熱くなるというのは、ひとえに人間が巧く描かれているからに他ならない。
それに加えて、脇役の若手俳優たちも個性的であり、前述の通り非常に冴え渡ったカメラワークがあり、現在と回想の織り交ぜた構成も見やすく情緒的にもすんなり受け入れられ、原作のどこからどの部分を映画として切り取るかという判断も適切であったと思う。
さて、『NANA2』では小松奈々役が宮﨑あおいから市川由衣に替わる。
一説によると、中島美嘉ばかりがチヤホヤされるので宮﨑あおいが怒って降りたのだと言う。単なる噂なので真偽のほどを確かめる気にもならないが、もし本当にそうだったのなら馬鹿だなあと思う──宮﨑サイド(本人なのか事務所なのか)も製作サイドも。
僕が宮﨑あおいファンだからそう感じるのかもしれないが、この映画は宮﨑あおいで持っている。もう一度見直して再度確信した。大谷健太郎の演出は目一杯宮﨑あおいをフィーチャーしているではないか。中島美嘉が中心のシーンも多いが映し方が基本的に違う。
特にすごかったのは巧(玉山鉄二)がドアを開けたら奈々が泣き出すシーン。あの表情は本当に宮﨑あおいならではだった。
僕は個人的には奈々のような面倒臭い女は御免被りたいが、あの過剰なまでの演技に支えられた可愛さとリアリティは否定できない気がする。
大谷健太郎も続編は引き受けずに他の監督に任せれば良かったのにと思う。とてもじゃないが、宮﨑あおい抜きで、あれを超える続編は作れないのではないかと思うのである。(宮崎あおい)
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