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Wednesday, August 09, 2006

亀田騒動に思う

【8月9日特記】 ちょうど1週間前の水曜日に亀田興毅とランダエタのボクシング世界王座決定戦の放送があって、その夜から翌日にかけて、TBSに何万件もの苦情電話やメールが寄せられたと聞いた。

「放送が始まってから試合開始まで引っ張りすぎだ」という非難が出るのは正直言ってむべなるかなと思う。しかし、「判定がおかしい」という苦情が多かったという話には首を傾げたくなる。

WBAに言うのであれば分かるのだが、何故そういうことでTBSに電話するのかがよく理解できないのである。

──誰にでも良いからともかく誰かに自分の憤懣をぶつけたいと思った人が多かったということなのか、あるいは放送局がジャッジの採点に対して何等かの影響力を行使していると本気で思っている人がいるということなのか・・・。

ま、ただ、今回書きたかったのはそういうことではない。1週間経ってあの現象を振り返ってみて、僕が改めて抱いたのは「日本人も公平にボクシングを見ることができるようになったなあ」という感慨であったということである。

僕が幼少の頃、日本人の多くはボクシングをプロレスと同じ見方で見ていたと思う。つまり、荒っぽく言ってしまうと、スポーツの醍醐味としてではなく、日本人が外国人をやっつける活劇として試合を見ていたということである。

ジャッジの公平さなどということにはあまり思いを馳せる余裕もなく、ともかく日本人が外国人を殴るという現象に単純に興奮していたように思う。

だから、日本人選手が3発殴られても1発殴り返せばそれは大きなカタルシスだったし、観客/視聴者は日本人が殴られるところは無意識に流してしまって日本人のパンチがヒットするところばかりに気を取られていたはずだ。

客だけではない。TVの解説者だって公平に見られていたかどうかは甚だ疑問だ。郡司さん(とかいう解説者が当時いたはずだ)の採点は大抵日本人びいきで、判定に持ち込まれた時、郡司さんは「僅差で日本人の勝ち」と言うけど蓋を開けたら3-0の判定負けなんてこともあった。

ともかく日本人が勝てばそれで良かった、というか、それが最重要ポイントだったのであり、多少ホームタウン・ディシジョンっぽかったとしても、「でも、まあ、勝って良かった」というのが大方の人の感じ方であったはずだ。

それが今回、晴れて亀田が王座を奪取したというのに囂々たる非難が、しかも直接関係のない(はずの)TBSに寄せられたという報告を聞いて、「日本人もいつの間にかボクシングをスポーツとして公平に見ることができるようになったのだなあ」と変なところに感心してしまったのである。

勝ったにも拘らずタイトル返上を検討せざるを得ない亀田にとっては、ジャッジではなく観客のきつい判定が下ってしまったということになるが、日本人がいつのまにかそういう眼を養っていたということは大変喜ばしいことであると思う。

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