『夕子ちゃんの近道』長嶋有(書評)
【7月6日特記】 舞台は「フラココ屋」というアンティーク・ショップ。帯の宣伝文句を借りると、「古道具屋の二階に身ひとつで転がり込んだ『僕』。人生の春休みのような日々を描く初の連作短編集」である。
主人公の「僕」は名前が何なのか、何歳くらいなのか、この店に転がり込む前までは何をしていたのかなど、具体的な背景が最後まで明らかにされない。雲を掴むような存在である。でも、なんか存在感の薄い気弱なお人好しという人間性は見事に描かれている。
他の主な登場人物はフラココ屋の店長、フラココ屋の大家であり付近一帯の大地主である八木さん、八木さんの2人の孫娘である朝子さんと夕子ちゃん(このネーミングが人を喰っている。ちなみに2人の両親はここにはいない)、フラココ屋の初代居候であり、今は道を隔てたところに住んでいる瑞枝さん、そして店長の昔からの知り合いであるフランス人のフランソワーズという女性である。
描き方としては「僕」と同じように、皆何かの情報が欠けている。例えば店長と瑞枝さん、店長とフランソワーズの関係は何なんだろうと気になるのだが、きっちり描かれていないので想像しながら読むしかなく、逆に言うと小説内にぼんやりと散りばめられた断片を集めながら想像するのが楽しい。
同じく舞台が古道具屋であるということもあってすぐに川上弘美の『古道具 中野商店』を思い出してしまう。この淡々とした書きっぷりも共通点を感じてしまう理由である。
川上弘美のほうは卓越した語彙と類稀なる表現力が合わさった、もうほとんど「話芸」と言って良い描写が魅力であるのに対して、長嶋有のほうはと言えば、この人のポイントはむしろストーリー上の「仕掛け」の巧さであると思う。
仕掛けったって、ストーリーの上では何か派手なことが起こるわけではない、と言うか、大抵はほとんど何も起こらない。ただ、ある程度読み進むうちに必ず「あ、あそこで書いてあったことがここで復活してきた」「なるほど、あれはシーンのリアリティを補強するために加えた細部の描写だったんじゃなくて、その何ページか後のこの部分に繋がる布石だったんだ」と思うところに突き当たるのである。
ひとつだけ例示すればそれは自転車のサドルだったりする訳だが、いちいち「これはひょっとしたら何かの伏線なのかなあ」などと勘ぐりながら読まないほうが良いと思うので、それ以上は書かない。ぼーっと読み進むうちに「あっ」と声をあげてしまうのが楽しいと思う。
川上弘美は誰にも真似のできない感性と観察力で人生のひとコマを切り取り、誰にも真似のできない話芸でそれを再構築して再現して行く。長嶋有も独特の感性と観察力で人生のひとコマを切り出して来るのだが、彼の場合はそのひとコマを転がしてどう繋げて行くかに神経を注いでいるように思える。
つまり、川上弘美は絵画的で長嶋有は動画的なのである。
もちろん川上弘美のストーリーは止まっている訳ではない。ただ、彼女の小説では動きの中のひとコマひとコマの美しさに眼を奪われるのに対して、長嶋有の場合は動画を構成するコマの存在を感じさせるよりも流れの鮮やかさに感心してしまうのである。
いずれにしても、どちらも大変巧い作家である。多分何年か経って思い出そうとしたら『夕子ちゃんの近道』と『古道具 中野商店』は僕の頭の中でゴッチャになってしまうだろう。そうならないうちに、今感じている両者の違いを書きとめてみた。
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