『インディアナ、インディアナ』レアード・ハント(書評)
【6月27日特記】 帯にあるとおり「柴田元幸が惚れ込み、ポール・オースターが絶賛した」となれば、これはもう読まない訳には行かないだろう。しかも、柴田自身が訳している。
そう意気込んで手にとってみたものの、しかし、これは却々読みづらい本である(特に最初のほうは)。
「ノアは両手をストーブの火にかざす」という一文で始まるこの小説は、どうやらこのノアという男が主人公であるらしい。しかし、何歳くらいで何の仕事をしているかなどの情報が全く提示されないまま話はゆるりと進んで行く。ノアは指を何本か失くしているらしい(何せ日本語は常に単複同形なので、それが1本なのか複数なのかも分からない)。
マックスという名前も出てくるのだが、この男もまた何歳くらいなのか、どこに住んでいるのか、そしてノアとはどういう関係なのか想像がつかないままである。
読み始めて3ページ目に「いとしいノア」で始まる手紙が引用される。差出人はオーパルという女性で、内容からしてノアと特別な関係にあったようだけれど、それがどんなものだったのか、今はどこにいて何をしているのか、そんなことがくっきり浮んでこない。
そして、書かれている文章がひどく抽象的な、雲を掴むような夢見るような、はっきり言って何を考えているのか想像がつかないのである。そして、その後にはヴァージルとルービーという2人が出てくる。これは辛うじてノアの両親だと判る。
そこまで読んで、ふと何ページか読み返してみて、オーパルがノア、ヴァージル、ルービーと同じサマーズ姓を名乗っていることに気がついた。
こんな風に謎を残したまま、この物語はゆっくりと進んで行く。そして、たっぷりと時間をかけて、山ほどの脇道エピソードを添えながら、この5人の関係があぶり出しみたいにゆっくりゆっくり像を結んでくるのである。
何通も何通も引用されるオーパルからの手紙。奇を衒っているのか韜晦なのかよく判らないような父ヴァージルの語り口。ノア自身の回想と夢想。そして、時々やってくるマックス。
話はなんだかよく解らない。「50%の物語」。でも、何を言っているのかはよく解らないのに、何が言いたいのかはとても解るような気がする──これはさながら詩である。とても美しい詩である。そして優しくて哀しい詩である。
ぐるぐると寄り道しながら、それでもまるで水が結局は低いところに流れ込むみたいに、読者は最後にたどり着くべきところにたどり着く。そのようにしてゆっくりと少しずつ全容を掴んで行くのがこの小説の方法論であるのであらすじを書けないところが少し歯がゆいが、その歯がゆさを暫し辛抱しながら、いやその歯がゆさに想像を広げながら、この物語に翻弄されてほしい。最後まで読んだ時に、長い溜息とともに何かが残っているはずである。
Comments