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Thursday, May 25, 2006

消えるタレント

【5月25日特記】 

「あのタレント最近見ないねえ」
「ホント、一時はあんなに出てたのに。最近どうしてるんですかねえ」
「うん、一体どこ行っちゃったのかねえ」

僕らは会社でそういう会話をしょっちゅうしている。が、その表現は実は公平ではない。タレントがどっかへ行っちゃったのではなく、テレビが彼らを置き去りにした、つまり使わなくなったのである。

彼ら(の芸風)はちっとも変わっていない。むしろ変わったのはTV局なのである。いや、あるいは彼らは彼らなりに変わった、つまり進歩したのに、それが視聴者やTV局が流れて行った方向と少しずれていただけで、要するに不運としか言いようがないのかもしれない。

置き去りにしたTV局が薄情なのか、あるいはTV局は世間のニーズに従ったまでのことなのか、いや、そもそもTV局が視聴者に迎合しようとすることが悪なのか。

飽きられたタレントの、流行に沿って変われなかったタレントの力量に問題があったのか、いや、そもそもフラフラと浮気な一般大衆が愚かなのか。

──それは一概には言えない、などと書くとTV局の責任論を振りかざして強い反発をする方もおられるだろう。しかし、やっぱりそれは一概には言えないのである。

テレビは大衆の指導者ではない。テレビは大衆の追随者でもない。そのどちらでもない危うい境界線上にあるのがテレビなのだと僕は思っている。「そのどちらでもある」という表現も可能なのかもしれないが、むしろどちらでもないところに足場を置こうとする意識があったほうが良いのではないかと考えている。

テレビはゴッタ煮の文化だと言う人もいるが、ゴッタ煮というほどそれぞれの具材やダシが溶け合っているものでもないと思う。

報道があって娯楽がある。大衆がまだ目を向けていない問題を掘り起こす調査報道やドキュメンタリーがある一方で事件・事故などのストレートニュースがあり、季節の話題などの所謂「暇ネタ」ニュースもある。多種多様なドラマやアニメがあり、知的好奇心に訴えるものからやや低俗でバカバカしいバラエティまでカバーしている。言わば和洋中取り混ぜた小皿料理が雑多に並ぶテーブルみたいなものである。しかも、そこには前菜からメインディッシュ、デザートまでに加えて各種のビバレッジまで載っているのである。

そんな雑多な消費文化の中で、あるタレントはいつしか打ち捨てられ忘れ去られる。──食べてもらえないメニューだから引いたのか、あるいは良い食材なので少し調理方法を変えればまだまだ人気メニューでいたはずなのにその努力を怠ったのか?──それは一概には言えない。

むしろ問題は、タレントという存在がそれほど次から次へと消費し尽くされて行くにもかかわらず、1タレントに依存した番組があまりにも多いということだ。

今は企画だけで押してもまず視聴率は取れない。仕掛けがしっかりしているかどうかではなく、タレントのトークの能力次第でバラエティ番組がブレイクしたりしなかったりする。必ずしも台本や演出の出来不出来ではなく、俳優の人気次第でドラマが当たったり外れたりする。

この壁をなんとか破らないとTV局の将来はないように思う。

ただ、もしタレントに依存せず企画で押して行けるとなると、タレントはもっと軽んじられて、「どこ行っちゃったのかな」というタレントが増えてくるかもしれない。

結局タレントとはそういう哀しい存在であるのかもしれない。もちろん大部分のタレントはその事実に気づいている。気づいているからこそ、人気のあるうちにTV局に対する発言力を思いっきり行使しようとするのかもしれない。

行使できているタレントは消えない。行使できない立場のタレントだけが消えているのである。

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