『ミーナの行進』小川洋子(書評)
【5月17日特記】 読み終えてまず何を措いても思うのはこの作家の飛び抜けた巧さである。
しかし、そんなことが最初の感想として浮んで来るということは、僕がこの作品に100%のめり込むには至らなかったという証拠でもある。そして僕は今、この2つの点のどちらに力点を置いて書こうかと真剣に悩んでいる。
僕が冷静な観察眼を失ってしまうほど登場人物に感情移入できなかったのは、恐らく40代の男性だからだと思う。多分これは少女向けの作品なのだろう。
「少女向け」というのは決して「女子供の読み物だ」という男尊女卑の世界観に基づくものではない。多感な成長期の人間が読むにふさわしい物語であるということである。
そういう意味では少年が読むのにもふさわしい。あるいは「本はあまり読まない」「小説なんて長いこと読んでいない」という人々にも打ってつけの本である。
それは「初心者向けにグレードを下げた文章だ」というのではない。それどころか、この小説における語順の正しさ、選ばれた単語の適切さ、平易であるにもかかわらずイメージの広がる表現など、どれをとっても文章を書く上での手本として良い非常にグレードの高い文章である。
それなのに非常に読みやすくすんなりと頭に入ってくるところがこの作家の巧さなのであり、小説の入門書としても最適なのである。
40代男性の僕は最後まで少し醒めた目線で読んでしまった。読みながら「あ、これは『博士の愛した数式』と同じ構造だな」などと、物語の向こう側にいる作家の姿を見透かしてしまった面がある。
この小説も『博士の…』も一様に構造的に優れた、つまり、しっかりと仕掛けの利いた小説である。一見何気なく描かれていたことが後でいろいろと繋がって意味を持ってくる(だからストーリーや設定はここではあまり紹介したくない)。
それは登場人物の名前であったり、彼らのちょっとした設定であったり、あまり重要ではないように見えたエピソードであったりする。そして、この本のタイトル自体もそうである。このタイトルを見た時、僕はまず「行進ってひとりでするもんじゃないだろう?」と思った──その問いに対する作者からの答えはこの本の中にひっそりと書かれている。
僕が没我的にではなく観察的に読んでしまったのは、『博士の…』が野球好きの少年と数学博士の物語であったのに対して、この小説が病気がちで本好きな少女とその従姉妹の物語であったからかもしれない。
ミーナにはモデルとなった女性がいるらしい。実話ではカバではなくロバだったという話も聞いた。
小川洋子は実話と創作を綯い交ぜにするのが大変巧い作家だ。例えば『博士の…』における江夏豊がこの小説におけるミュンヘン五輪バレーボール日本代表チームである。
柴田元幸が「この作家は台所がそのまま異界に繋がっている」みたいなことを書いていたが、この表現はこの小説には少し当てはまらないと思う。むしろあまり突飛な「異界」を描いてもいないのに全体がファンタジーなのである。
僕のように、舞台となっている芦屋に多少とも土地勘のある人間であれば面白さは倍加するといって良い。
確かにのめり込むには至らなかったにせよ、おじさんが読んでも充分楽しめるし、やっぱり巧さに嘆息してしまう小説だった。
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