ドラマW『対岸の彼女』
【4月8日特記】 このところ WOWOW から録画したまま観ていない映画や、買ったまま一度も聴いていないCDがかなり溜まってきた。ひとつずつ片づけようと思い、今日はドラマWアンコール『対岸の彼女』を観た。角田光代の直木賞受賞作のドラマ化である。
原作は読んだ(書評はこちら)。大変巧い作家である。複雑な構造をした、仕掛けのある小説である。
2つの物語が交錯する。
ひとつは小夜子と葵の話。小夜子は引っ込み思案で何の取り得もない主婦。小さい頃から友だちができなかった。そして、幼い娘が自分にそっくりで、やはり友だちがいない。そのことを思うと暗い気分になる。
その小夜子が娘を保育園に預けて就職する。就職先の旅行会社兼清掃代行業の社長が葵。偶然にも小夜子の大学の同窓生だった。葵のほうは見るからに明るく社交的で、さばさばした親分肌の女性である。
ドラマのほうでは小夜子に扮しているのが夏川結衣、葵に扮してるのが財前直見である。
清掃業部門のリーダー格になった小夜子は同僚たちからボスと呼ばれる。ボスという呼び名はバリバリ仕事をこなしているワンマン社長の葵にこそ似つかわしく、小夜子がそう呼ばれることには違和感があるにもかかわらず──ここに小さな逆転がある。
そして、もうひとつの話は葵の高校時代。現在の葵のキャラから想像がつかないが、実は彼女は小さい頃からずっと苛めに遭っていて不登校の末に転校する。そこで知り合って親友になったのがナナコ。暗くて大人しい葵に比べて、ナナコは明るく強く楽天的である。ちょうど小夜子と葵の関係が逆転して高校時代の葵とナナコの関係になる。
ところが、ある日を境にナナコがクラスメイトから苛められるようになる。回想シーンになって、またしても関係が逆転するのである。
この高校時代の葵に扮しているのが石田未来、そしてナナコに扮しているのが多部未華子である。
──そう、このドラマを見ようと思ったのは多部未華子が出ていたからである(多部未華子関連の過去記事についてはこことここを参照してください)。ここでも抜群の存在感を示している。いよいよもって主演映画『夜のピクニック』の公開が待ち遠しい。
しかし、それにしてもこの映画の出演者は皆一様に巧い。くよくよと悩む夏川も、ガラッパチおばさんの財前も、ぼんやりと沈む石田未来も、葵の悩める父役の香川照之も、そして代行清掃業者の根岸季衣も・・・。
前述の逆転の構造によって、この小説を読んだ時には少し混乱した。高校時代の回想が始まった時、当然主人公は小夜子だと思った。ところが主人公は葵であり、しかも現在のやり手女社長の面影もない、むしろ小夜子の少女時代ではないかと思えるような苛められっ子である。
このドラマでも、高校生の葵を演じた石田未来は現在の葵である財前直見よりもむしろ夏川結衣のほうに似ている。本を読んでいた時と同じ混乱に陥ったのだが、これは多分意図された演出なのだろう。
そして、このドラマを観て、原作を読んだ時には気づかなかったメッセージに気づいた。この関係の逆転を重ねた構成は人間の交換可能性を暗示したものなのである。
誰でも心に暗い部分・弱い部分を抱えているのであって、人は皆いつ自分が苛められる者の地位に突き落とされるか分からない瀬戸際にいるのである。そして、苛められる者と守る者が入れ替わるのは、心に抱えた暗い部分・弱い部分を互いに実感できるからである。
そして皆がこの暗い部分・弱い部分を共有するのであれば、ひょっとすると(そこまでのことは小説でもドラマでも描かれていないが)苛められる側と苛める側が入れ替わる可能性さえあるのではないだろうか。人間の恐ろしさを感じさせるドラマである。
そんなことをはっきりと感じさせてくれたのは映像というものの持つ力なのだろう。カメラワークが素晴らしかった。圧倒的な構図の勝利である。画面の下の枠を底辺として、常にどこかに不等辺三角形が形成されている──本来非常に感覚的である構図というものを敢えて論理的に説明しようとするとそういうことになる。カメラマンは釘宮慎治──『蝉しぐれ』の撮影監督である。
そして監督は平山秀幸。たくさんの作品がある監督であるはずだが、どういうことか1つも思い出せない。不思議に思って調べてみたら、僕は彼が助監督を務めた作品は(映画館で)6本観ているが、監督作品は1本しか観ていなかった。この『対岸の彼女』は彼の代表作になるのではないかな。
概ね原作に忠実なドラマ化であるはずだ。もうあまり記憶が定かでないのだが、最後のほうでいくつかオリジナル・シーンを入れたようだ。
原作同様深い苦悩を超えたところにうっすらと爽やかな救いの予感がある。なかなかの佳作である。
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