『僕はマゼランと旅した』スチュアート・ダイベック(書評)
【4月26日特記】 読み終わるまでに随分長い時間が経ってしまったが、決して読みあぐねていたわけではない。読み流してしまうのが惜しいくらいの美しい文章に酔いしれていたのだ。
往々にして薄っぺらい印象しか残さない短編小説というものを普段は敬遠している僕だが、1つひとつの話がこれくらいの長さに達していればそういう惧れはかなり軽減されるし、何よりもこれは単なる短編の寄せ集めではなく連作短編なのである。
シカゴの下町育ちのペリー・カツェクというポーランド系の少年と、その家族・親戚、クラスメイト、あるいは名前は知っていてもあまり話したこともない近所の人がそれぞれの話の主人公で、話によって登場人物が微妙に重なり合い、大体はペリーの視点で描かれている。
復員したミュージシャンであるレフティおじさんに連れられてペリーが酒場で歌っていた頃の想い出を書いた「歌」で始まり、2作目の「ドリームズヴィルからライブで」では弟ミックと遊び興じた幼い頃の想い出話が書かれている。そして3作目の「引き波」では父親「サー」に連れられて湖に泳ぎに行った日の想い出が語られる。
──そう、この短編集は全編そういう想い出で埋め尽くされている。それは家族の想い出であり、青春の想い出であり、シカゴの街の思い出である。
ただ、想い出という通奏低音に支えられながら、その上を転がって行くメロディはかなりバラエティに富んでいて、あるものは低年齢向きのジュヴナイル・ノベル風であり、あるものは威風堂々たる青春文学であり、またあるものはもう少しねっとりとした恋愛小説であり、一方でギャングまがいの殺しが出てきたかと思うと他方には幾分社会派の臭いのするものがあり、幻想文学かと思えば冷徹なリアリズムが顔を出す。
その変幻自在が全てシカゴという街と、そこでのポーランド系アメリカ人としての生活に結びついており、分類するとなるとこれは「シカゴ小説」と言うしかあるまい。
そして、最後の「ジュ・ルビアン」はレフティ叔父の葬式の日の話なのだが、訳者の柴田元幸はこれを「全体のコーダともいうべき最後の作品」と称している。この比喩が何故適切であるかと言えば、これらの作品の多くが音楽小説でもあるからである。
「ロヨラアームズの昼食」の中で、ペリーはガールフレンドにこう言われる──「私は物事のつながりを愛し、長編小説の全体像を好む。そしてあなたは……あなたは人生を<忘れがたい瞬間>集と捉えている。そこに並んでいる、どれも栄養失調の詩集みたいに」(285ページ)。
これはほとんどこの短編集についても当たっている。当たっていないのは1篇の詩のようではあっても決して栄養失調みたいではないということだけだ。
「マイナー・ムード」の中では彼はこう書いている──「記憶とは過去がその力強いエネルギーを伝道するための回路なのだ」(365ページ)と。これもそのままこの短編集に当てはまっている。
柴田元幸による全く淀みのない美しい言葉の波に洗われているだけで、うっとりしてくる。これはただ柴田の翻訳能力によるのではなく原文の持つエネルギーなのだと思う。ストーリー・テラーとしてのダイベックの感性にも技量にも、ともかく舌を巻いてしまう。美しくて甘くて、芯の堅い果実のような連作短編である。深く嵌りこんでしまって、もう2度と抜け出せそうにない気がする。
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